その他 歴史散歩 第375回

■災害の記憶と記録
~過去の大地震 そのとき毛呂山は~

埼玉県は、他県と比べて自然災害が少なく、穏やかな地域という印象が強いようです。しかし、近年、報道でも話題になるような風水害に見舞われた地域もあり、改めて日頃からの備えの大切さが判ります。9月1日は、防災の日。大正12年(1923)9月1日午前11時58分、相模湾北西部を震源とする巨大地震が関東地方を襲いました。防災の日を機に、過去の大地震と毛呂山の様子を振り返ります。

◇安政(あんせい)2年(1855)の大地震
江戸を中心に甚大な被害をもたらした安政2年の大地震は、毛呂山にも爪跡を残しました。当時の大谷木村、阿諏訪村、瀧野入村で地震による山崩れがおこり、土砂が田畑を襲いました。大谷木村の岩沢地区で山が崩れ、日影地区では地盤沈下、岩盤の隆起が起こったといわれます。この時3村の村役人は、日光奉行(にっこうぶぎょう)に500両の借用を願い出て、災害復旧に当たりました。後に隆起(りゅうき)した岩盤を切り出した石を用いて、石碑が造られています。

◇関東大地震
大正12年(1923)9月1日の関東大地震では、家屋の全壊が11万戸、火災による焼失は21万戸、死者は約10万人に及ぶ大災害となりました。毛呂山町には、関東大地震と震災の記録が意外にも残されていませんが、地震発生直後の様子は、『毛呂山民俗誌』に記憶として綴(つづ)られています。当時、毛呂山の人々は、経験したこともない地震の揺れや地鳴り、道にできた地割れなど実際に体感したことがない恐怖を感じていたようです。さらに恐怖を襲ったのは、多くの人が目にした東京方面の空が真っ赤に燃えさかる様子でした。震災発生の夜、複数の人が自宅の裏山から、東京が焼け続ける光景を見ていました。
目の当たりにする光景に対する恐怖の他に、流言(りゅうげん)・デマが人々の不安を煽(あお)りました。最初の流言は「富士山が爆発し、噴火中」「東京湾沿岸に猛烈な津波が来襲」「更なる大地震が起きる」といったものから、「火災は放火と爆弾投擲(とうてき)による」「暴徒潜伏(ぼうとせんぷく)」「暴徒は、計画していた暴動を震災により企てを変更して、爆弾、劇薬を流用した」など、より具体的な内容に変わっていきました。関東大地震を経験し、震災について語ってくれた方々は、一様に当時の情報を流言、デマ、噂として伝えています。災害時の情報は、人身・人命を守る重要な命綱です。正確な情報、受け取った情報を正しく伝えることは、関東大地震から学ぶべき大切な教訓です。