- 発行日 :
- 自治体名 : 埼玉県毛呂山町
- 広報紙名 : 広報もろやま 令和7年10月号 No.1021
■江戸時代の旅いろいろ
今年も厳しかった夏を越え、10月から11月になると、各地の行楽地は秋の賑(にぎ)わいを見せます。現代は、インターネットの普及によって、旅先の情報や宿泊先、旅券の手配もスムーズで大変便利になりました。旅を楽しみたいという欲求は、いつの時代も変わらなかったようで、江戸時代の人々も農閑期(のうかんき)を利用して、旅を楽しむようになりました。とくに庶民の旅に大きな影響を及ぼしたのが、富士山や大山(おおやま)、戸隠山(とがくしやま)など霊峰(れいほう)の登拝(とはい)、伊勢神宮の「伊勢参(いせまい)り」、坂東・西国・秩父百番や四国八十八ヶ所で知られる霊場巡礼(れいじょうじゅんれい)がよく知られています。
霊峰を対象にした山岳信仰や「伊勢参り」では、「講(こう)」と呼ばれる共同組織を作り、講員の代表が参拝を行う代参が行われました。また、講員が参拝記念碑を建てることもありました。
小田谷の石尊山(せきそんさん)の上に、江戸時代の万延(まんえん)元年(1860)庚申(かのえさる)の年に講員によって立てられ「冨士仙元大菩薩(ふじせんげんだいぼさつ)」と刻む富士講碑があります。石碑の建立には、当時の小田谷村を発起人として、川角村をはじめとする11の村と地区が世話人となっていました。また、高萩村(現日高市)、的場村、小堤村、鯨井村(以上現川越市)、広野村(現嵐山町)、上野村(現越生町)の講員を加えた大々的な事業だったことが伺えます。万延元年庚申の年は、富士山信仰にとって特別おめでたい年でもありました。富士山が出現したのは、紀元前301年庚申の年とされています。庚申の年は60年に一度の御縁年(ごえんねん)と呼ばれ、この年に富士登拝を一度行えば、33回分の御利益(ごりやく)があるとされ、富士登山ブームが起こったと言われています。
霊場巡りの旅も人気で、町内には、満願成就(まんがんじょうじゅ)を果たした人々の巡拝塔(じゅんぱいとう)が残っています。長期間の旅が難しい人々のために、高麗比企入間横見四郡の寺院で四国霊場札所の写しを設け、町内では、行蔵寺(ぎょうぞうじ)(滝ノ入)、宝福寺(ほうふくじ)(大谷木)、延命寺(えんめいじ)(下川原)、南蔵寺(なんぞうじ)(廃寺・川角)、山本坊(やまもとぼう)(廃寺・西戸)が加わりました。ほかにも大薬寺(だいやくじ)(大類)、智福寺(ちふくじ)(西大久保)が札所となる中武蔵七十二薬師(なかむさししちじゅうにやくし)霊場があり、時間と金銭的な制約の中で功徳(くどく)を得る旅を行いました。
