文化 歴史のしずく

■歴史の謎を解く
根の中木戸地区に伝わる県指定文化財「小金原のしし狩り資料」の色羽織と村小旗は、江戸時代に幕府が小金牧で行った「しし狩り」の際に使用されたものです。しし狩りは8代将軍徳川吉宗が開始し、享保10(1725)年、11(1726)年、寛政7(1795)年、嘉永2(1849)年の計4回行われました。
しし狩りは7手に色分けされ実施されました。地黄(ウコン)文字黒は四の手の特徴です。しかし、これが何時のものか分っていませんでした。
再検証の結果、中木戸新田は享保11年に加勢子として三の手で、寛政7年は勢子として五の手、嘉永2年は四の手で参加していました。享保10年も三の手での参加と考えられ、色羽織と村小旗は嘉永2年のものと判明しました。
村小旗は勢子を出す村々で用意しましたが、色羽織は幕府から勢子の世話役に渡された、木綿の単羽織です。『船橋市西図書館所蔵資料集』によると嘉永2年のしし狩りでは中木戸新田の(風間)儀左衛門が世話役を務めており、色羽織が渡されたことが分ります。なお全国で色羽織が現存するのはこの1点だけです。
小金牧の牧士を務めた富塚の川上家にも同色の村小旗が伝わります。富塚村も三の手、五の手、四の手の順で参加しており、こちらも嘉永2年のものと判明しましたが、牧士として参加したため、世話役の色羽織は存在しません。
再検証の中で「八千代市史」の享保10年のしし狩りの史料から牧士風間八郎左衛門の名が確認できました。「柏市史」では中木戸新田の牧士とします。川上家に伝わる県指定文化財の「馬たい石」には、しし狩りの際に徳川吉宗が乗っていた馬から出てきたもの(胆石)で、牧士の風間八郎右衛門から譲り受けたという伝承がありましたが、これまでそれを裏付ける史料は未発見でした。今後検証が必要ですが、風間八郎左衛門は白井で一番最初に記録された牧士であり、馬たい石の元々の所有者だったと考えられます。

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