文化 戦争を見つめて

令和7年(2025年)は、昭和20年(1945年)の太平洋戦争終結から80年の節目の年です。広報たこでは数回にわたって戦争を振り返ります。

◆戦争体験を聞く
髙木光子(たかぎみつこ)さん
私は昭和10年(1935年)生まれで、太平洋戦争の終戦当時は10歳でした。8月15日のラジオ放送を聞いたときは、難しい言葉だったので内容は分かりませんでしたが、日本が戦争に負けたことは子どもながらに理解していました。戦争が終わったときはほっとしましたが、これからどうなるのだろうという不安もありました。今は平和な時代になってよかったと思います。

▽戦争は恐ろしく、悲しいもの
私は母子家庭で育ち、戦争当時は小さかったので覚えていないことも多いのですが、戦争の恐ろしさは強く心に残っています。空襲警報や、防空壕(ごう)の中で聞いた飛行機の音はとても恐ろしく、目に見えない恐怖が迫ってきました。
実際に飛行機が戦っている場面を見たことはないですが、一度だけ遠くの方に爆弾が落とされたところを見ました。終戦間際の頃だったと思いますが、旧干潟町(現在の旭市)にあった飛行場に母親が勤労奉仕に行っていて、そちらの方向に爆弾が落ちたのです。そのとき母は爆弾でやられてしまったのではないかと思い、私は不安で泣いてしまいました。幸い、母はその日の内に無事に戻ってきてくれたので、とても安堵(あんど)したのを覚えています。私や私の親族は戦争で生き延びることができましたが、学校には戦争で父親を亡くした子どもたちもいましたし、私の友人で勤労奉仕の作業中、不慮の事故で亡くなった方もいました。戦争や戦争の影響で亡くなった方、辛く悲しい思いをした方は多古にもたくさんいたと思います。

▽戦中戦後で苦労したこと
戦況の悪化で兵器製造のための鉄が不足してくると、供出といって鉄製品を国が集めるようになりました。昔多古を通っていた軽便鉄道の線路や、一般家庭でも鍋やヤカンのような鉄製品を供出しました。物が不足していた時代でしたが、一番困ったのは食べ物ですね。今のように食べ物がどこでも手に入る状況ではなく、ほとんど自給自足でしたから畑でいろいろなものを作って食べていました。移動手段も今ほどありませんから、何kmも歩いてサツマイモを取りに行ったこともあります。食べるための工夫もいろいろしていて、甘納豆を一粒単位で買ったり、釜に残った米粒を集めて乾かして再利用したりもしました。食糧難は戦後も続いて、みんな食べること、生きることに必死でした。今の生活を見ると、こんな贅沢(ぜいたく)をしていいのだろうかと思うくらいです。食べ物を粗末にしてはいけませんね。

▽今を生きる皆さんへ
戦争はもう二度と起こしてもらいたくないですね。あんな思いは、これからの人たちにはさせたくないです。しかし残念ながら、今でも世界中で戦争は起きています。戦争の被災者支援の募金箱を見かけたら、少しでも協力できたらなんて思います。こういう時代があったことも心に留めていただきながら、今を生きる皆さんには幸せな人生を歩んでいっていただければ幸いです。

◆編集後記
戦争体験の話を聞き、振り返ることは大変貴重な機会でした。私の祖父は、今回インタビューさせていただいた髙木さんとほぼ同年代ですが、戦争で父を亡くし、苦労して母や兄弟たちを支えていたと聞きました。私の場合は、少しだけですが戦争の話を聞いておくことができました。時代が進めば、戦争経験者から話を聞く機会もいずれなくなってしまいます。悲劇を繰り返さないためにも、できる限り記憶を聞き、残し、伝えていくことが必要だと思います。