- 発行日 :
- 自治体名 : 千葉県多古町
- 広報紙名 : 広報たこ 令和7年8月号
◆「開墾地の誇(ほこ)りと埃(ほこり)」
多古町が千葉県の一員となり、今年で150年です。編入される少し前に幕府御用牧の開墾が始まり、順に数字と好字を組み合わせて地名をつけました。初富(はつとみ)・二和(ふたわ)・三咲(みさき)・豊四季(とよしき)・五香(ごこう)・六実(むつみ)・七栄(ななえ)・八街(やちまた)・九美上(くみあげ)・十倉(とくら)・十余一(とよいち)・十余二(とよふた)と続き、最後の13番目が私のふるさと十余三(とよみ)です。12カ所あった御用牧の一つ矢作牧(やはぎまき)を壱番~参番に分けて埴生郡(はぶごおり)十余三村と称し、その後壱番が多古町に入ります(弐番が旧大栄町、参番が成田市)。
しかし与えられた名前は定着しませんで、殆(ほとんど)の人が、赤池、高堀、御料地などの字(あざ)を使っていました。
時々訊(き)かれるのが、「赤池には赤い池があるの?」。答えは、「あります」。ただしいつもは普通の池、赤く見えたのは土埃のせいでしょう。開墾地の春一番はすさまじく、空も赤茶色に染まります。十余三小学校は木造でしたから、強風が吹くと庭ほうきで教室の掃除をしました。
最近、赤い池が史跡だと知ります。牧にいた野馬の水飲み場だったらしく、牧を囲む土手堀が語源の高堀と関連していたわけですね。さらに西へ進むとシンボリ牧場の新堀(旧大栄町)、南へ進むと御料地に入ります。
皇室用の御料牧場になったのは取香牧(とっこうまき)の筈(はず)、なぜ矢作牧なのに御料牧場の地と呼ばれるのか調べてみたところ取香牧だけでは広さが足りず、いったん御料に組み込まれ、戻ったあとも通称として残ったようです。
蛇足ながら、開墾地は次男や三男の入植が多く、安定するまでお世話になった本家への遠慮はあったでしょう。また我々の世代でさえ、悪気がないとは知りつつ、からかわれて理不尽な思いをしました。もちろん今は、開拓民の末裔(まつえい)であることを誇りにしています。そのためか、十余三じゃなくても開墾地出身と聞けば、独特の親近感を覚えるのです。