- 発行日 :
- 自治体名 : 千葉県多古町
- 広報紙名 : 広報たこ 令和7年11月号
◆「米か領地か」
一鍬田も含んだ空港拡張に先立ち、圏央道の工事が進んでいます。五辻から芝山町との境界に沿って進み、間倉を抜け喜多の国道296号線と交わる辺りに多古インターチェンジができる予定です。
間倉には、『遠山の金さん』の部下の領地がありました。当コラムは、時代劇を観る際に役立つ雑学もお伝えしたいと考えていて、今回は近世の給料形態、特に国内全ての90%強が房総にあった給地を紹介します。
江戸時代の土地は大まかに4種類、幕府領(御料)、大名領(領分)、旗本領(知行所)、御家人領(給地)です。現代の会社員風に言えば、旗本は総合職、御家人は一般職でしょうか。ほとんどの御家人が米の現物支給で、給地という土地支給は限られており、代表的なのが専門職にあたる与力(よりき)です。『必殺仕事人』のムコ殿こと中村主水が同心(どうしん)、与力は上役で袴をはいていました。同心の給料が40俵で与力は200石ほど。俵表記が現物、石表記は領地を表し、200石の手取りが200俵くらいですから約5倍になります。与力給地は上総に多く、多古町で確認できたのは間倉だけでした。
それがどう影響するかというと、与力は多忙なため業務を地元に丸投げとなり、自治が進む過程で江戸が身近になるわけです。例えば伊能忠敬の出生地も給地、学問を志し江戸へ出る決断に土地柄も無関係ではないと思います。また、サツマイモは幕張と九十九里で試験栽培され普及しましたが、主導した大岡越前守の部下、つまり南町奉行所与力の給地だった故です。世が世なら間倉が試作地として名を遺したかもしれません。
なお、お隣の喜多には、後世の南町奉行本人(旗本)の領地(知行所)がありました。この界隈が上総と下総の国境(くにざかい)で、東国開拓以来ずっと統治の要所だった証左でしょう。圏央道の建設にも、利便性のみならず土地に与えられた天命みたいなものを感じます。
