文化 ちょうなん歴史夜話

■長南開拓記(76)~「竪穴」?「平地」?~
原始・古代の住居といえば、地面を掘り込んだ床面上に構造物を建てた「竪穴住居」が思い浮かびますが、用途が住居に限定されていたとは限らないので、近年は「竪穴建物」との呼び方が増えています。また、住居も竪穴建物だけでなく、床面として地面を掘り込まない「平地建物」や床を地面より高く作る「高床建物」を併用していた可能性があることから、原始・古代は「竪穴建物が住居として主体的に使われた時代」という理解が妥当と思われます。竪穴住居の消滅時期は、西日本では飛鳥時代、東日本では平安時代とされており、実際、千葉県内の奈良・平安時代の集落跡の発掘調査でも、「十世紀前半までに竪穴住居が消滅する」との報告例が多く、平安時代前半に住居の主体が平地建物や高床建物に移行していったと考えられます。しかし、それらが房総全体の状況を表しているのか、と言えば、そうとも限りません。
前述の状況は、量的に膨大な下総台地の発掘調査事例に基づいたものですが、台地上以外では異なっていた可能性があります。夷隅川が開析した谷底平野の微高地上にある田向遺跡(いすみ市弥正)では、古墳時代後期の竪穴住居跡が一二軒見つかっていますが、それらに後続する竪穴住居跡は見つかっていません。ただ、地面に掘り込んだ穴に、柱を立てて造る「掘立柱建物跡」が一二棟見つかっており、うち八棟が古代の建物跡とされています。これらは柱穴が浅く、頑強な高床建物より、平地建物であったかもしれません。出土遺物が少なく詳細は不明ながら、これらは竪穴住居群より後の年代が想定されています。また、竪穴住居跡はいずれも掘り込みが極めて浅く、こうした地形は地下水位が高いため、床面を深くできない、という制約を受けています。つまり、竪穴住居には不向きな立地のため、台地上よりも早く、住居の主体が平地建物や高床建物に移行した可能性があります。田向遺跡がある夷隅川中流域の地形は、長南町を含む一宮川水系河川の中流域に類似しており、そもそも竪穴住居跡のみでは、この地域の奈良・平安時代集落の実態を捉えられていなかったのかもしれません。

◇原始・古代の主な建物の模式図。
竪穴建物や高床と思われる掘立柱建物に比べ、平地建物の発見例は少ない。ただし、これは数が少ないのではなく、地面の掘り込みが浅く、発見が困難なことに起因するとみられる。
※図は本紙をご覧ください

(町資料館 風間俊人)