くらし 【特集】「すぎなみビト」俳優 角野卓造(1)

■プロフィール
角野卓造(かどの・たくぞう)
昭和23年8月10日、東京都生まれ。幼少期を大阪で過ごし、中学校から再び東京へ。昭和45年、文学座附属演劇研究所入所(第10期)。47年に初舞台「飢餓海峡」(文学座)を踏み、その後50年に座員となる。令和6年3月、退座。舞台俳優としてだけでなく、ドラマ「渡る世間は鬼ばかり(シリーズ)」をはじめテレビでも活躍。また、俳優業のみならず趣味である「音楽」「旅」「酒場巡り」などの番組・書籍・連載など幅広く活動している。受賞歴多数。平成20年度には紫綬褒章を受章。

■中央線沿線と大阪のど真ん中で過ごした子ども時代
─角野さんの人生は、中央線との縁がとても深いとお聞きしています。
生まれは信濃町にある慶應義塾大学病院。親父は広島の呉市出身で、私が生まれたときに一期だけ県議会議員を務めていた。私は小さい頃から親父の仕事が忙しくなると、四ツ谷にあるお袋の実家に預けられることが多かったんです。

─大阪で暮らしていた時期もあったそうですね。
幼稚園から小学校の間は、親父が大阪の道修町で喫茶店をやっていたので、大阪のど真ん中で育ちました。関西にいたのはその頃だけなんだけど、物心ついたときを過ごしたからね、関西の文化はしっかり染みついていて、今でも西へ向かうと関ケ原あたりでカチャッと関西人に変わるんだよ。

─小学校まで大阪で、その後また中央線沿線に戻ってきたのだとか。
そう、親父が東京でも事業を始めるために麹町に事務所を構えて、私はまたお袋の実家に預けられて、そこから麹町中学校に通う生活が始まったんです。その後、武蔵小金井に家族で引っ越して、中学最後の1年間は武蔵小金井から麹町中学校まで通うことになったので、高校生活も含めて、とにかく毎日中央線に乗っていました。

─通学していた頃の中央線には、どんな思い出がありますか?
昔はまだ中央線が高架化されていなかったから、踏切がたくさんあって、車窓から線路沿いにびっしり並んだ家が見えたんだ。そのうち中野から西側が高架になって、荻窪は青梅街道が渡っているからそこで一度下って、また西荻窪に向かって上がっていって、また三鷹で下って…。忘れようがないくらい幾度となく見た景色だから、今でも覚えています。

■文学座に入所。初めての一人暮らしは阿佐谷で
─劇団・文学座に入ったのは何歳のときですか?
入所は22歳のとき。中学で芝居に目覚めて、高校・大学と演劇に力を注ぎ、行きたい劇団・やりたい芝居みたいなものもあったけれど、自立した一人の俳優になりたくて。そのためには大きい劇団でなければダメだと分かっていたので、就職のつもりで文学座を選びました。当時は武蔵小金井の実家から信濃町にある劇団の稽古場まで通っていたけれど、家に帰るのはせいぜい週3日くらいだったな。新宿のゴールデン街で仲間と過ごして、そのまま誰かの家に転がり込む。そんな生活でしたね。28歳くらいで、やっとこさ自分で家賃が払えるようになって一人暮らしを始めました。

─そこで住み始めたのが杉並だったのですね。
中央線から離れられるような気はしなくて、良い物件を探していたときに見つけたのが阿佐谷の家だった。エレベーターもないマンションで、今でも中央線の高架から見えるんだよ。そこに住んでいる間に結婚もして、劇団の旅公演で甲府・松本方面に行くときは、マンションのベランダからかみさんが手を振る姿が特急列車から見えたのが懐かしいな。子どもが生まれて荻窪に家を建てて、今に至るまで44年間荻窪。つまり、大阪にいた8年間を除くと、人生のほとんど中央線から離れていないというわけだ。