文化 【故郷の人物を知ろう】たかおか温故知新(おんこちしん)

■先覚的な銅器問屋/金森宗七(そうしち)(1821~92)

宗七の幼名は巳之吉(みのきち)、金屋町の刃物商七郎右衛門の二男として生まれました。24歳で独立し、御馬出町に銅器問屋「金宗」を構えます。原料の銅を仕入れ、職人に仏具や火鉢を作らせ、仙台・秋田から下関、大坂など全国に販路を開拓し、大いに成果を得ました。しかし、売れた原因は単に他の地域より値段が安いだけだと考えた宗七は、自ら筆をとって図案を研究し、高岡銅器の品質向上に努めました。1865年には横浜の居留地(きょりゅうち)貿易に進出し、当時流行したジャポニズムも追い風に国内外へ広く販売しました。
1872年、自宅裏に工場を建設し、更に前年に廃藩となった旧富山藩の刀剣金具の名工平石親随(ひらいわしんずい)らを招いて職人を養成し、さらに彫金の名工横山弥左衛門(やざえもん)や象嵌(ぞうがん)の名手関沢卯市(せきざわういち)らに斬新な意匠の製品を発注して逸品を多く制作します。「岡物」と揶揄(やゆ)された高岡銅器は一転して全国で評判となりました。宗七の名声を慕って集まった旧加賀藩の名工(村沢国則(むらさわくにのり)、駒井元貞(こまいもとさだ)、泉清次(いずみせいじ)(鏡花(きょうか)父)ら)を雇用して高級品を制作したので、高岡銅器の美術工芸技術が大きく進歩しました。
1873年、ウィーン万博に出品・受賞(これ以降も国内外の博覧会にて受賞を重ねます)。同年、金沢彦三町(ひこそまち)に職人31名を抱える「宗金堂」を出店します。これは高岡銅器問屋として初の元藩都への進出という快挙でした。しかし、翌年以降金沢商人・長谷川準也に次々に引き抜かれ、1875~76年頃に撤退せざるを得ませんでした。その後も高岡で活躍し、銅器産業の発展に多大な貢献を果たしました。
(仁ヶ竹主幹)

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