- 発行日 :
- 自治体名 : 山梨県北杜市
- 広報紙名 : 広報ほくと 令和7年7月号
■市指定文化財 三嶋神社本殿
今回は、市指定文化財である三嶋神社本殿を紹介します。
三嶋神社は明野町上手字大久保に所在します。創立年代は不明ですが、弘安(こうあん)年間(1278~1288)、一説には弘安7年頃、伊豆国三嶋神社より勧請(かんじょう)したと伝わっています。木造銅板葺の本殿は、江戸時代中頃の明和(めいわ)元年から5年(1764~1769)にかけて、八代源五右衛門康利(やつしろげんごえもんやすとし)の寄進によって建替えられました。特に、本殿側面を飾る彫刻は、南巨摩郡下山村(現・身延町)の彫工・佐野清次郎紀充(さのせいじろうのりみつ)によって作られた壮麗なもので、扉両脇に昇り龍と降り龍を配し、天井を雲竜にして、三方に竹林の七賢人、花木、鳥獣を浮彫りで表現しています。
○三嶋神社の由緒
三嶋神社が創立したとされる13世紀後半、上手村が立地する茅ヶ岳山麓の領主は判然としませんが、貞治(じょうじ)5年(1366)には伊東掃部助祐家(いとうかもんのすけすけいえ)が山小笠原荘内弘篠郷(やまおがさわらのしょうないひろしのごう)(現在の韮崎市穂坂町日之城か)に、応永3年(1396)には伊東蔵人祐範(いとうくろうどすけのり)が山小笠原荘朝尾郷(現在の北杜市明野町浅尾)に、それぞれ所領を得ていることから、14世紀後半頃にはすでに伊豆半島出身の御家人である伊東氏が勢力基盤を築いていたと想定されています。茅ヶ岳山麓の各地に所領を得た伊東氏は、一族の一部を土着させて所領を経営したと考えられます。上手の三嶋神社の勧請が伝承のとおりとすると、伊東氏が知行を足掛かりに、氏神である伊豆国三嶋神社をこの地に勧請し、一族の繁栄と土着の地歩を固めたと考えることもできます。現在、三嶋神社の周辺集落に伊東姓が集中することも関連するかもしれません。
○三嶋神社と八代家
三嶋神社から南に600mの場所に、国指定重要文化財「八代家住宅」があります。八代家は江戸時代、上手村の富裕農(ふゆうのう)で、年番で名主(なぬし)を務めていました。安定した水量を保つ河川が少ない茅ヶ岳山麓は、古来、水利に苦しんだ土地で、17世紀中頃に浅尾堰、両村堰などの農業用水堰が開削されたことにより、水田面積は飛躍的に増加、米生産高も向上しました。八代家は、こうした農業発展に軌を一にして発展したと推測されています。八代家に残されている古文書によると、17世紀後半には長百姓(おさびゃくしょう)など村の有力な成員となり、18世紀中頃には名主を務める立場にあったことが分かります。
三嶋神社本殿再建に尽力した八代源五右衛門康利は、この八代家当主で、「源五右衛門」は歴代当主が襲名した名です。富裕農として成長した八代家は上手村の発展にも寄与していたのです。
三嶋神社は創立から730年以上経った現在でも、毎年4月の春季例大祭の際に神楽を奉納するなど地域の人々が心を寄せる氏神様として存在しています。
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