- 発行日 :
- 自治体名 : 山梨県北杜市
- 広報紙名 : 広報ほくと 令和7年10月号
■津田仙(つだせん)からの手紙
北杜市郷土資料館には、津田梅子の父で農学者であった津田仙から安都那(あつな)村(現高根町箕輪)の清水恵美に宛てられた書簡が所蔵されています。
恵美の父は、穴山村(現韮崎市穴山)出身で、第十国立銀行(現山梨中央銀行)を開業し初代の頭取(とうどり)となった栗原信近(のぶちか)です。信近は、山梨県内の産業の近代化と殖産興業(しょくさんこうぎょう)に大きな貢献をしました。しかし、頭取からの失脚、その後起こした紡績(ぼうせき)会社の倒産の憂き目にあいます。信近に招かれ山梨にワイン醸造技術指導に来ていた仙は、信近と懇意にしており、苦境にあった信近の娘・恵美を引き取り自分の娘同然に育てたのだそうです。
恵美は、仙のもとで、横浜の米国系の専門学校に通い、主に英語と聖書を学びました。仙は恵美に渡米を勧め、2度目のアメリカ留学をしていた梅子を追って渡米の準備を進めていたところ、恵美のもとに縁談の話が舞いこみます。
お相手は、安都那村で酒造業を営む清水有文(ゆうぶん)です。有文の父・則重は信近の兄にあたり、清水家の養子となって箕輪村の戸長や、県会議員を歴任した人物で、信近とともに、県内の産業振興に尽くしました。有文は、いとこである恵美を、嫁として迎えるべく津田家へ使者を遣わしたのです。
仙は、この縁談に反対し、恵美を座敷にかくまい、使者に会わせなかったといいます。日本禁酒同盟の副会長を務め、禁酒運動を先導していた仙にとって酒造業を営む人物との縁談は認めがたかったのでしょう。有文は将来酒造業をやめると約束し明治23年に恵美を妻に迎えたと伝えられています。
仙からの手紙は、明治40年のものです。恵美が有文に嫁いでから17年もの歳月が経っていましたが、娘同然に愛情をかけてきた恵美を思う細やかな気遣いが感じられます。アメリカ留学を目前に結婚した恵美。もし留学していれば、梅子のように女性の社会進出の先駆者となっていたのかもしれません。
問合せ:学術課(郷土資料館)
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