くらし 戦後80年 語り継ぐ平和への想い(2)

太平洋戦争でご家族を亡くしながら、ご自身も戦時、戦後の苦しい時代を生きてこられた山梨県遺族会笛吹支部の竹川さん、吉川さんに当時の思い出やご家族への思い、戦争を知らない世代に伝えたいことなど、貴重なお話を伺いました。

■竹川節子(たけかわせつこ)さん(石和町在住)
私は昭和11年生まれで89歳になりました。戦争当時の年齢は、父が出征する頃は3歳ぐらい、甲府空襲の時には小学校へ上がるか上がらないかぐらいだったと記憶しています。当時から住まいは石和町でした。
私の父は昭和13年に中国の南昌(なんしょう)へ出征し、翌年の昭和14年に亡くなりました。当時、私はまだ幼く、父のことはほとんど覚えていません。出征してから1度帰ってきた時に、家の上がり端のところですれ違ったような記憶がかすかに残っているぐらいです。後は家に残された肖像画での印象です。父が亡くなったという報告があった時も、私の母から聞いているぐらいのことで、まだ小さかったから当時の記憶はないですね。
父以外にも、私の叔父が戦争で3人亡くなりました。父は男5人兄弟で、父含めそのうち4人が戦争で亡くなっています。2番目の叔父が最初に亡くなりまして、それが中国の奉天(ほうてん)というところ、今度は父が南昌(なんしょう)、それで3番目の叔父が南京(なんきん)、4番目の叔父はフィリピンの海上でした。
私自身の戦争の記憶としては、甲府空襲の時が思い出されます。昭和20年7月、甲府が空襲に遭った時、私は隣に住む一つ上のいとこと一緒に、近くの渋川の下に逃げ込みました。甲府の空が焼夷弾で火の玉のように真っ赤になっていました。この辺は、小学校や役場に焼夷弾が落とされ焼かれました。実際に空襲の被害にあったということはないですが、すごく怖かったことを覚えています。空襲が去った後、隠れている私たちを家族が必死に探し回ったそうです。
また、当時の暮らしぶりとして貧しかったことを覚えています。たまたま私の家は農家をしていて、お米なんかも作ってはいましたが、食べるものに不自由がないっていうことはありませんでした。かさ増しにサツマイモとか大根をご飯の中に入れて食べていました。当時、この辺りには、疎開で逃げてきた人たちがたくさんいましたが、どういう生活をしていたかはわからないけど、食べるものには私たちよりも困っていたんじゃないかなと思います。戦争が終わってからも、しばらくは厳しい生活が続いたことを覚えています。
これからは恒久平和でなければいけないと思います。戦争は本当に悲惨なものでした。良いことなんて一つもないです。世界では今も各地で争いが起きていますが、私は話し合いで解決できる方法があるはずだと信じています。すべてのことは話し合いで解決して、戦争はもう二度としないでほしいです。今もこれからも私は恒久平和を願っています。

■吉川薫(きっかわかおる)さん(八代町在住)
私は今81歳になります。昭和19年2月生まれですので、終戦の時は1歳半でした。私の生まれは宮城県ですが、戦時中に母の実家であるこちらに戻ってきている中、父が亡くなってしまったので、そのまま宮城に戻ることがなくなってしまいました。私の父は昭和20年6月に戦死しました。父は医者だったため、軍医として出征していました。兵役で一度は戦地から帰国しましたが、2回目の招集があり、インドネシアのジャワ島付近で病院船に乗っている際に、魚雷攻撃を受けて亡くなりました。父も私が生まれたことは手紙などのやりとりで承知していたと思います。
私には戦争の記憶は全く頭に残っていませんが、戦後の生活の惨めさや苦しさ、それから父親がいない寂しさは強く記憶に残っています。当時の生活はまさにひもじいものでした。お金がなく、キャラメルが2個で1円という値段でしたが、それさえ買うことができませんでした。あの頃は麦飯が食べられれば良い方で、だいたい冬はほうとう、夏は冷麦という生活でした。今では当たり前に食べられる、肉や牛乳なんて想像もつかない話でした。そういう中で成長してきましたが、父親がいないっていうことがやっぱり寂しかったです。戦争から父親が帰ってきた人はまだ貧乏ながらも普通の家庭ができるんですけど、うちはもう永久に帰ってこないですから。多分いたずらをすると怒られたりするんでしょうけど、そういう相手がいないのは寂しいものでした。同級生の父親がいる家は、確かによく怒られていましたけど、私に比べて骨があったような気がします。私の家は母と祖母と姉が2人おり、男は私一人でしたので、周りからすれば優しくしてくれたのだと思います。
サラリーマン時代にアジアのいくつかの国に仕事で行くことがありました。私には戦争の記憶はありませんが、各国の方々と関わる中で、当時の戦争が今の社会にどう影響しているのかを目の当たりにしました。その中で、戦争が終わって長い年月が経っても、遺恨を残すような戦争は、今後絶対にやってほしくないと思いました。政治の世界は庶民にはわかりませんが、権力者には自分のやりたいことを実現するために、独断と偏見で何かを決めてしまうようなことはしてほしくないです。
頭の良し悪しや性格の良し悪しは個人差があると思います。だから、学校に行っても気の合う友達もいれば、気の合わない友達もいます。その中で、みんなそれぞれうまく立ち回っていく。これは国でも世界でも全く同じことだと私は思います。今の日本は平和で、これを継続していくことが本当に大事なことだと思います。
もう一つ私が大事だと思うことは、これを今の子供たちにどう伝えていくか、あるいはどう自覚させていくかということです。今は経済的に恵まれているので、これだけの豊かな生活もみんな当たり前になっていると思います。私が小さい頃経験したひもじさは絶対に避けるべきです。それは平和だから避けられるのであって、今後戦争は絶対にしない、話し合いで解決するべきです。今の時代でこれを語り継ぐというのは、相当に気を入れてやっていかなければならないと思っています。