文化 山中湖村 村史だより vol.17

■山中地区の石造物(6) 山中出口稲荷神社の馬頭観音像 国道建設竣工碑
山中出口稲荷神社脇に観音像があるのはご存じでしょうか。ここには全部で6体の馬頭観音像があります。大きさは一番大きいもので地上高72cmです。造作年代のはっきりしているものは文化7年(1810年)の銘があります。この馬頭観音像群は、山中湖村にとって大事な道路―甲駿往還―の脇に立てられました。この場所は、中世から現代までの道路が通る重要な場所です。一番古い道路は、ファナック方面に向かう道で戦国時代を含めて中世からの道です。この道は、元亀3年(1572年)より昔、上吉田の古い集落である古吉田(スーパーベイシアから吉田小学校に向かう道筋)を通過しました。北条早雲や北条氏綱はこの道を通り吉田を攻略したと思われます。梨ケ原方面に向かう現在の国道の道は、元亀3年に上吉田が現在の場所に移動した後、盛んに使われるようになったと思われます。前回紹介しました白隠や伊能忠敬もこちらを通ったのでしょう。
時代が下って明治36年(1903年)になると中央線が甲府駅まで伸びてきました。この時まで甲駿往還の重要性は相当なものでした。たくさんの馬が荷物を運び、静岡県と山梨県及び長野県の間を行き来しました。この頃の甲駿往還の痕跡は稲荷神社本殿前の階段あたりからセブンイレブン山中湖インター店の後ろの崖上に残っています。この場所は、鷹丸尾溶岩流の縁に当たり道の傾斜が急になります。ここを「馬殺しの坂」と言ったそうです。この名前から、馬が重い荷物を運び、時折ムチを打たれることもあったでしょう。馬が喘(あえ)ぎ喘ぎ上って行く姿が想像できます。
また、中にはこの場所で馬が立ち往生することもあったでしょう。ここの稲荷神社は、馬の慰霊と安全のため創建されたと神社の表示板にあります。馬にとってここは難所でした。中には倒れ死んだ馬もいたと思われます。死んだ馬の供養として造られたのが稲荷神社脇の馬頭観音群です。
現在の国道ができたのは、昭和29年(1954年)8月31日です。今でもセブンイレブンの敷地には、国道の竣工碑が置かれています。竣工碑には、二級国道富士吉田小田原線として表記されています。国道ができる頃には、身近な農林業を除いて馬を使った物資の輸送はほとんど見られなくなっていました。そして、国道は諏訪神社と浅間神社の間を抜け湖畔に出ます。この国道の敷設が山中集落の形を大きく変えたことは間違いないと思われます。湖畔沿いの国道の脇には続々と観光客相手の店や施設が出来、山中湖は一大観光地になっていきます。

・難所である出口稲荷大明神脇で馬頭観音が現在の馬(自動車)の通行を眺めています
・国道竣工碑…開通で湖畔が観光の中心として栄えるようになった
※詳しくは本紙をご覧ください。