- 発行日 :
- 自治体名 : 山梨県山中湖村
- 広報紙名 : 広報やまなかこ 令和7年9月号
■山中地区の石造物群(3) ―山中観音堂(山中小の脇)境内の石仏―
今回は、山中観音堂の境内にある石造物についてお話します。山中観音堂は、郡内観音巡り11番札所として知られています。観音巡礼の始まりは、西国33ヶ所巡礼です。次のような伝説があります。養老2年に徳道上人が亡くなった時に閻魔大王に会い、「最近、生前の罪業で地獄に来る者が多い。日本の三十三ヶ所の観音霊場を回れば滅罪の功徳がある。地獄の鬼も少々疲れている。お前は生き還って観音巡礼を勧めて人々を救え。」と地上に帰されます。ところが観音巡礼は広まず忘れ去られてしまう。西暦1000年頃、花山法王は和歌山県の那智でお告げを受け、徳道上人の観音巡礼を復活させた、というものです。事の真偽は別として、郡内でも観音巡礼の御利益を得るために33ヶ所巡礼が江戸時代に始まったと言われています。山中観音堂の御詠歌は、「み仏の船には のりの山中へ 参るこの身は 浮かぶなるらん」。木像2尺5寸(136cm)で聖観音菩薩像と言われています。
山中観音堂は、長らく山中地区の信仰の中心でした。そのため境内には、18体の歴史的石造物が置かれています。内訳は、地蔵像11体、馬頭観音像1体、墓石5体(内、卵塔2体)です。ここに卵塔と呼ばれる僧侶の墓石が2体あるということは、ここが住職のいる寺だった時期(明和年間・寛政年間の銘があります)があったことを意味しています。また、他の場所と異なって馬頭観音像が少ないことが大きな特徴です。一方で、幼い子の霊を救うという地蔵像が11体もありますが、背面に名前が書かれているものもあります。智観童女、如幻童子、智瑶童女、慶音童女と記されています。没年は、享保9年(1724年)が1人分・天保3年(1832年)が2人分・天保12年(1841年)が1人分・天保13年(1842年)が2人分(1体の地蔵像に3人分の名前・没年が彫られているものがある)。これらの地蔵像が各家の墓所ではなく山中観音堂にあることを考えると、幼くして亡くなった子供の霊を慰め少しでも極楽に近い観音のそばに置きたいという親の気持ちがヒシヒシと伝わってきます。また、幼い子供を祀った地蔵像が天保年間に集中していることは注目すべきことだと思います。
山中観音堂にある一番大きな特徴は、丸彫り(※姿全体を石や木から彫り出すこと、一方、浮彫とは半身を素材から浮き上がるように彫ること)の仏像13体すべてに破壊の跡が見られるということです。補修してあるが元の首が無くなっているもの7体、首が割れて補修してあるもの5体、全身が割れて補修してあるもの1体。篭坂峠にある丸彫りの馬頭観音の首が地蔵で補修してある話は以前しました。山中地区のほとんどの丸彫り仏像は首辺りで折れており、補修されています。確かに仏像は首が細く一番折れやすいのですが、この数は異常です。証拠はないので推測でしかないのですが、明治期の廃仏毀釈が原因だと思われます。つまり、明治の初めの頃に人間の手で折られたと考えられます。廃仏毀釈は、明治の初めの神仏分離令に基づいて過激化した人々が寺院や仏具の破壊に及びました。北麓で代表的な例は、上吉田の浅間神社の参道にあった仁王像の首が切られさらされた事件です。廃仏毀釈は短期間でしたが、日本の文化財に破壊的な影響を与えました。山中観音堂の石仏群もその影響を受けましたが、その後、心ある人々の手で補修されています。