文化 森町の歴史~遠州の小京都ばなし~ 教育委員会社会教育課

■第十五話 日本近代建築板金の泰斗・山田信介(その六)
(広報もりまち令和7年9月号「森町の歴史・第14話」からのつづき)

明治18年(1885)に外務大臣に就任した井上馨は、不平等条約の改正を実現させるために、日本の文化や制度をヨーロッパ風にして近代化を目指す欧化政策を進めました。その政策の一つとして、ドイツ人建築家主導の西洋建築による官庁集中計画が立てられました。しかしながら明治20年(1887)に井上が失脚したため、計画は中止になりました。
ドイツ人建築家ベックマンからの進言を受けて、明治19年(1886)に政府がドイツへ派遣した20名の留学生は、明治23年(1890)に帰国。ベックマンは、議事堂、大審院、司法省の3棟の設計のみを行うことになりました。
官庁集中計画は中止になりましたが、政府は、西洋建築による官庁の建設を進めていきます。その中心となったのは、臨時建築局技師としてドイツに留学した妻木頼黄(つまきよりなか)、渡辺譲、河合浩蔵でした。大審院(当時の最高裁判所)は妻木頼黄、司法省(法務省旧本館)は河合浩蔵が実施設計・工事監理を担当し、屋根の板金工事は、技師達と共にドイツに留学した森町出身、徳川家康の御用鋳物師山田七郎左衛門の末裔、山田信介が手掛けました。信介は、最先端の技術を持つ板金加工業者として東京美土代町に会社を設立、大阪鷺洲町に出張所を置き、日本の名立たる西洋建築の建設に次々と携わりました。
『蔵前交友誌』(1926)、『土木建築請負並に関係業者信用録』(1930)、『大衆人事録第3版』(1930)によると、信介が板金を手掛けた主な建物は次の通りです。東京商業会議所、東京府庁、海軍省、司法省、大審院、帝国京都博物館、日本銀行本店・大阪・名古屋・小樽・函館支店、東宮御所(迎賓館赤坂離宮)、三井銀行、日本生命本店、兵庫県庁舎、上野図書館、上野奉献美術館(表慶館)、国技館、帝国劇場、神奈川県庁舎など。つづく。
参考:帝国秘密探偵社『大衆人事録第3版』(1930)

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