文化 【特集】未来へ繋ぐ想い 設楽原をまもる人たち(1)

天正3年(1575)5月21日(旧暦)、織田・徳川連合軍が武田軍を破った「長篠・設楽原の戦い」がありました。その戦いでは、織田・徳川連合軍が武田軍騎馬軍団の突入を防ぐために作った馬防柵がよく知られています。
この馬防柵は、「設楽原をまもる会」によって昭和56年に復元されました。全国に多くの古戦場がありますが、設楽原のように馬防柵など古戦場の景観がよく残っている場所は珍しいようです。
地域の歴史を調べ、そこに暮らしてきた人々の思いや願いを後世に伝えていくことは大切なことです。しかし、長く続けていくことはなかなか大変です。時が経ち、世代が代わる世の中では、地域に残された伝承も、いつしか忘れられてしまうことも多いものです。「長篠・設楽原の戦い」の歴史を、昭和・平成・令和と40年以上の間、伝える努力をされている「設楽原をまもる会」の方々にスポットをあて特集しました。

■設楽原をまもる会 年譜
・昭和55年7月…設立総会を開催
・昭和56年6月…設楽原古戦場いろはかるた49句完成
・昭和56年6~7月…馬防柵の第1期復元作業
・昭和58年1月…馬防柵の第2期復元作業
・昭和61年4月…火縄銃演武の初開催
・平成2年7月…第1回設楽原決戦場まつり開催
・平成2年10~12月…20カ所に古戦場案内看板の設置
・平成4年7月…設楽原決戦場まつりで子供武者行列を実施
・平成6年7月…第5回設楽原決戦場まつりで火縄銃演武を実施
・平成11年3月…「設楽原戦場考」出版
・平成12年7月…山梨県の小学生が鉄砲銃玉1つを竹広で発見
・平成14年12月…5回目となる馬防柵の全面改修(木材400本を7日間で改修)
・平成15年8月…東郷西小児童3人が鉄砲銃玉3つを馬防柵付近で発見
・平成19年7月…設楽原鉄砲隊と共同で火縄銃連続撃ちを開催
・平成20年1月…5年に1度の改修から毎年実施する方式に変更
・平成22年7月…「火縄銃連続撃検証」を日本銃砲史学会で発表
・平成23年12月…「設楽原の鉄炮と玉」を日本銃砲史学会で発表
・平成26年8月…「戦国ウォーク」出版
・令和2年夏…「設楽原をまもる会40年の歩み」出版

■映画「影武者」がきっかけで会が発足
昭和55年、黒澤明監督の歴史映画「影武者(※)」がカンヌ映画祭でパルム・ドール(最高賞)を受賞し、当時多くの話題を呼びました。映画では馬防柵とそこを疾走する武田騎馬軍団が描かれ、その映画を観た人々が設楽原を訪れるようになりました。しかし当時、そこには馬防柵はありませんでした。
これが一つの契機となり、馬防柵を復元する試みがスタートしました。
しかし一部の人が再現するだけでは長続きしない、地域ぐるみの活動とし、地域の想いと理解があって初めて活動が開始できるという考えから「設楽原をまもる会」が発足しました。昭和55年7月9日のことです。
(※)戦国時代の武将・武田信玄の影武者として生きることを強いられた小泥棒の物語。

■活動は仲間つくり
インタビューの中で強く印象に残ったのが、「史跡は努力してまもる」ということ、そして会の活動は「仲間つくり」ということです。
馬防柵の材料となる木材は自然物のため、数年で腐食が進みます。管理維持していくためには、定期的に補修、交換が必要です。さらに景観美化のためには、年数回の草刈作業なども必要です。
これらの活動や関連する様々な活動に地域住民が加わることで、仲間つくりが進んでいきます。

■山から木を切出し馬防柵は作られた
当時、材料となる木材は、活動に理解や協力をしていただいている方々の山から1本1本切り出し、皮をむき、乾燥させたうえで馬防柵を組み上げていきました。こうして、昭和56年に第1期目の馬防柵が完成し、2年後には第2期目の馬防柵が完成しました。手探りの中で様々な資料を参考にし、復元を成し遂げました。かつては5年に1度、朽ちた木材を代えるために全ての馬防柵を修復していました。現在では防腐剤を注入した木材を利用し、作業量を減らして1年に1回、予め決めた区間を修復しています。この方法により定期的に馬防柵の改築ができ、作業手順を忘れることはないそうです。こうして、今でも技術の継承など試行錯誤をしながら、定期的に馬防柵の修復作業を行っています。
力のいる作業で大変ですが、活動の日には多くの方々が集まり、作業は次々に進んでいきます。参加者一人一人が主体的に作業するため、指示を出さなくても自ずと作業が進んでいくそうです。チームワークの良さを感じられる時です。
大変な作業ですが、世間話をしながら皆と一緒に修復した馬防柵を見ると、気持ちがよく、疲れも忘れるとのことです。