- 発行日 :
- 自治体名 : 愛知県新城市
- 広報紙名 : 広報しんしろ ほのか 令和7年7月号
■内藤修理亮昌豊(ないとうしゅりのすけまさとよ)之碑
設楽原歴史資料館の北側に位置する天王山、その一角に内藤昌豊(ないとうまさとよ)の石碑が建てられています。
内藤昌豊は近年、昌秀が正しい名前であるとされています。武田家の家臣として、信虎、信玄、勝頼の三代に仕えたとされ、武田四天王の一人と言われています。
特に武田信玄からは大きな信頼を得ていましたが、信玄は一枚も感状(昌秀を褒めたたえる書状)を与えなかったと伝えられています。これは信玄が「昌秀であればこの程度の働きは当然である」とし、また昌秀は「戦は勝利を得ることが大切であって、個人の手柄はたいしたことはない」と言って、気にもかけなかったそうです。
長篠・設楽原の戦いでは、武田方の中央隊として天王山に陣を構え、柳田激戦地で6度戦い、織田・徳川連合軍の馬防柵を破るなどの活躍を見せました。
「本多家武功聞書」によると、昌豊が千五百の兵を率いて三重の柵を打ち破り、そのうち二十人余が徳川方の陣地に攻め込んできましたが、本多忠勝により追い返されてしまったとされています。
その後、戦況が悪化する中、昌豊は討死の時がきたと、残兵百人余と共に引き返し、徳川本陣を目掛けて討ってかかろうとしました。それを察知した本多忠勝は槍をふるって戦い、榊原康政(さかきばらやすまさ)、大須賀康高(おおすかやすたか)も弓鉄砲の足軽を先に立て、攻撃します。その結果、内藤勢は皆討たれ、昌豊自身も鎧が蓑のようになるほど矢や鉄砲を受けてしまいます。それでも敵を討とうとする昌豊を朝比奈泰勝(あさひなやすかつ)(今川の家人)が槍で首を取ったと「改正三河後風土記」には記されています。
敗戦色濃い中で、主君勝頼が逃げ延びることができるよう最期まで戦おうとした昌豊の姿は、今も地域の方々によって語り継がれています。
問合せ:設楽原歴史資料館
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