文化 歴史は未来の羅針盤 温故知新

[日野歴史探訪]
私たちの住む日野町には、52の大字があり、それぞれの地域が豊かな自然と歴史文化で彩られています。
温故知新では、町内各大字の歴史と代表的な文化財をシリーズで紹介していきます。

◆大字深山口(みやまぐち)
大字深山口は、南比都佐地区のほぼ中央の駒月谷の谷間に位置し、大字清田・鎌掛・下駒月・迫と接しています。字域には大字上駒月を源流とする砂川が中央を流れ、東端には嶺上(れいじょう)を鎌掛・下駒月との字界(あざかい)を三分している標高280メートルの小岳があります。
地名の由来としては、小岳が古くは「御山(みやま)」といわれており、当地が同山の谷口にあたることから(『滋賀県の地名』)や、往古この辺りを「綿の深山」(来田綿(くたわた)ノ深山)といい、東海道より幽山(ゆうざん)へ入る口という意味から(「蒲生一郡記」乾)などといわれています。史料では、文明(ぶんめい)18(1486)年「十禅師御宮勧進請取日記」(『近江日野の歴史』第五巻文化財編)に「ミヤま口若宮」と記されています。
深山口村の江戸時代の領主は、館林(たてばやし)藩・前橋(まえばし)藩・川越(かわごえ)藩・幕府・川越藩と代わり、最終的には前橋藩領を経て明治時代をむかえました。

◆誉(ほまれ)の松
特別養護老人ホームや日野町立南比都佐小学校の校歌に歌われる「誉れの松」には、次のようないわれが残っています。
ある日の夕暮れに一人の老人が深山口村の道をとぼとぼと歩いていましたが、やがて道端に座り込んでしまい、村人が声をかけても応えられないほど弱っていました。仕方なく村人は、その老人を庄屋(しょうや)の家へと連れて行ったところ、ふるさとの伊勢に帰りたいと言いながら息を引き取ってしまいました。庄屋はこの老人を手厚く葬り、その場所に1本の松の木を植えました。
この松は、明治35(1902)年から、庄屋や村人の親切な対応に感動した滋賀県知事河島醇(かわしまじゅん)の勧めにより、「誉れの松」と呼ばれるようになりました(『近江日野の歴史』第六巻民俗編)。
昭和54(1979)年に伐採されましたが、代わりに幼松が植えられました。

◆大地(だいち)神社の「石枕」
深山口には、氏神である大地神社に参拝したときに、本殿の中に置かれている「石枕」を取り出して、本殿前で赤子の頭を東に向けて、晴れ着のまましばらく寝かせるという宮参りの風習が伝わっています。
宮参りとは、生後1か月が経つと、氏神に参拝して報告をするとともに、その成長を願うことをいいます。
日本では古来、大自然の万物の全てに神が宿るとされており、その中でも石には神の霊が常に宿る依代(よりしろ)として、その石を大切にする信仰がありました。
大地神社の石枕の風習も、誕生から1か月ほど経ってから宮参りを行い、氏子になる儀式であるとともに、神様の宿る石から力を授けてもらおうとする信仰によるものとされています。

問い合わせ先:近江日野商人ふるさと館「旧山中正吉邸」
【電話】0748-52-0008