- 発行日 :
- 自治体名 : 兵庫県赤穂市
- 広報紙名 : 広報あこう 2025年4月号
■りくの台所
正徳3(1713)年9月、香林院(こうりんいん)こと大石りくは、内蔵助の二人の遺児代三郎(だいさぶろう)・るりと共に故郷豊岡を離れ、広島へ旅立ちます。
12歳の代三郎に用意されていたのは、亡夫と同じ千五百石の知行と、三の丸の一等地に位置する千石取りの人物の元屋敷でした。
その屋敷に移って半年余り、内蔵助の親類で、代三郎の広島仕官を支援した大石良麿(よしまろ)からの「広島の屋敷は赤穂より良いですか」という手紙に、りくは「赤穂の屋敷より普請(ふしん)は劣りますが、全体の広さや前庭は赤穂よりも良く、部屋数も多く、台所も広くて、赤穂に劣っているところはありません」と書き送っています。
台所について触れているのは、家族の日々の食事に気を配りつつ、冠婚葬祭に際しては千五百石取の武家にふさわしい食膳を采配する主婦として、大切な場所だったからでしょう。
この台所、実際どれほどの広さだったのでしょうか。実は豊岡には「芸州広嶋(げいしゅうひろしま)鞁魯(こ櫓(ろう))ノ前大石代三郎様屋敷」と書かれた小さな帳面が残されています。りくの父石束源五兵衛(いしづかげんごべえ)の家来口分田茂兵衛(くもでもへえ)のご子孫の家で保管されてきたもので、平成27(2015)年に石束家の菩提寺正福寺で開催された、大石りくまつり・りく女追悼法要での講演に際し、所蔵者のお名前を伏せることを条件に紹介させていただき、今回も「忠臣蔵の散歩道」に画像の掲載を快諾していただきました。
その内容ですが「間数之覚」(以下「覚」とする)として、各部屋の名称の下に広さが5ページにわたり畳数で書かれています。玄関は文字通り建物の入り口とわかりますが、屋敷図のように、それぞれの部屋の配置は描かれていません。
これによると台所は上と下の二か所あり、上台所は広さ二十五条(ママ)(以下畳とする)、下台所も二十三畳あります。宮内庁書陵部に残る大石内蔵助屋敷図にも二十畳余りの広さを持つ上下台所が描かれていますから、赤穂に劣らないという言葉とおりのようです。
りくたちの住まいを「覚」に書かれた順に紹介しますと、主である代三郎の公的空間の表中にある部屋とその広さは、書院十二畳、広間十八畳、高間(賓客を迎える上段の間の意か)二十二畳に床二畳が付き、縁側八畳、十畳敷之間十畳、玄関十六畳、使者間七畳に同四畳、続いて部屋十二畳、板ノ間四十畳とあります。
表と奥の中間に位置する居間中には、先ほどの上下台所があり、それぞれに三畳と七畳の詰所が付随していました。また武家らしく十畳の弓間もあります。他に囲之間(囲炉裏の間か)六畳、納戸六畳、□ウエノ間(不明)十畳、廊下五畳に、四畳の部屋、食クイ(喰か)所六畳、部屋六畳、廊下を除けば大小九つの部屋があります。
奥中と書かれた家族の生活空間には、上之間八畳、中之間十畳、四畳敷同二階四畳とあることから、二階建ての建物もあったようです。続いて納戸九畳、広間十五畳、茶間は二十畳の広さでした。さらに上の部屋五畳、下の部屋八畳、下の部屋二畳、其口二畳、覚書はこれで終わりです。赤穂の大石家屋敷のように立派な長屋門などもあったのでしょうが、ここには記されていません。
この「覚」は、口分田茂兵衛の孫で、代三郎の幼なじみの勘次郎(かんじろう)なる人物が書き留めたものと思われます。勘次郎は代三郎の2才上で元禄13年の生まれです。彼の母さいが、茂兵衛の娘でした。
その勘次郎が若年の時に、広島の大石家を訪問し、代三郎から豊岡の親類縁者への伝言を託されたことが、「覚」と一緒に残されていた代三郎の直筆文書からわかっています。
ふるさと豊岡の人たちをなつかしむ、代三郎のこの文書も、またいつかご紹介できればと思います。
石原(いしはら)由美子(ゆみこ)(豊岡市文化財室史料調査員)
※参考文献
瀬戸谷(せとたに)晧(あきら)「大石良雄の妻理玖の生涯」但馬歴史文化研究所 2010年
※「こ櫓」の「こ」は環境依存文字のため、置き換えています。正式表記は本紙をご覧ください。