文化 〔コラム〕忠臣蔵の散歩道(64)

◆堀内伝右衛門の「武士の」和歌入手譚(にゅうしゅたん)
現在、赤穂市立歴史博物館には「義士墨跡(ぎしぼくせき)」という史料が所蔵されています。これは細川家に御預けになった赤穂義士17名の和歌・俳句・漢詩などを集めた巻物です。義士接待を担当した熊本藩士堀内伝右衛門(ほりうちでんえもん)(勝重(かつしげ))が義士たちから贈られたものと伝わっています。
この「義士墨跡」の中に、大石内蔵助が書いた和歌があります。

武士(もののふ)の矢並つくろふ小手のうへに あられたはしる那須のしの原
(武士が箙(えびら)の矢を整えていると、その籠手(こて)の上に霰が落ちて音を立てている。那須の篠原はなんと活気のある狩り場であることか)

この和歌は内蔵助自身の作ではなく、鎌倉幕府三代将軍である源実朝(みなもとのさねとも)のものです(『金槐(きんかい)和歌集』に所収)。
この内蔵助筆の和歌は堀内に贈られたものであることは「墨跡」の冒頭にある冨森助右衛門(とみのもりすけえもん)の書状に明らかですが、内蔵助の筆跡を入手するために堀内は色々と知恵を巡らすのですが、それは彼の筆記である『堀内伝右衛門覚書』に詳しく書かれています。

◇内蔵助の和歌を入手
義士切腹後、堀内は堀部弥兵衛(ほりべやひょうえ)の勧めもあって内蔵助の一族である大石無人(おおいしむじん)(浪人で元浅野家臣。息子の許に身を寄せていました)を訪(おとな)いました。そこで泉岳寺に納めたはずの義士の遺品が売り払われているという驚くべき情報を聞きました。堀内は八方手を尽くして、そのいくつかを入手しました。
堀内は、かねてより行っていたことがありました。それは義士の筆跡を書いてもらうことでした。今でしたらサインをもらうに似た感覚だと思います。
実は熊本藩士の中に内蔵助の忍(しのび)の緒(兜の緒)を所持した人がいました。堀内はそれがほしくて仕方がありません。そこで、忍の緒を所持しているその人物が堀内に入れ知恵を致します。
それは内蔵助に実朝の「武士の」和歌を2枚書いてもらうというものでした。その人物は下書きを堀内に渡します。
堀内は冨森助右衛門を通じて内蔵助に和歌を書いてくれるよう依頼します。そして依頼の通り2枚調(ととの)えてくれたのでした。
そして、堀内は内蔵助の和歌1枚と引換に内蔵助の忍の緒を無事に入手したのでした。
堀内には、この発想は神に誓ってなかったと言っていますが、「しかし内蔵助によくもこんな依頼をしたものだなぁ。でも、これはその人のお陰である」と『覚書』にその感慨を述べています。そしてこの人物こそ入江文右衛門と『覚書』で明かしたのでした。

◇義士コレクター 堀内
実は堀内は大の義士ファンであるとともに、義士コレクターでもありました。晩年、熊本の菩提寺である日輪寺(にちりんじ)(山鹿市)に義士の供養塔を建てたりしていますから、義士に対する敬慕の厚さを感じます。
堀内は他にも大石の苔守や吉田忠左衛門の「討入覚書」なども入手していますが、後に吉田の遺族から『兼好(けんこう)家集』という和歌集までもらっています(『広報あこう』No.852-2022年12月)。
堀内のこうした義士熱ともいうべき愛情が、貴重な赤穂事件の史実を残してくれたのです。

佐藤 誠(さとう まこと)(赤穂大石神社非常勤学芸員)