文化 歴史探訪 シリーズふるさとを見直そう

■江戸時代の水害とその対応
神戸大学大学院人文学研究科 井上 舞

江戸時代の篠山川周辺は、しばしば水害で橋や井堰、堤などが破壊され、その度に人々は修復のための工事(普請(ふしん))を行っていました。
山南町の高座(たかくら)神社文書のうち「慶応三丁卯(ひのとう)年諸向留(しょむきとどめ)帳」という史料は、谷川村に陣屋を置いていた旗本織田家の役人が、陣屋内の行事や支配地の各村からの嘆願(たんがん)、またそれらへの対応などを書き留めたもので、この中に水害対応の普請に関する記事が残っています。
「兵庫県災害史」や「丹波史年表」によれば、慶応2年(1866年)4月と8月に丹波で水害があったことが記されています。具体的な被害の範囲や程度は不明ですが、このとき山南地域の村々も被害を受けたのではないかと考えられます。被害を受けた川筋や田畑の普請には莫大な費用がかかります。このため、周辺の村々はこぞって役所に嘆願書を出していたようです。先に挙げた「諸向留帳」には、慶応3年正月付で支配下の各村々への回答(申渡(もうしわたし))が記されていました。このうち、両谷川村(奥谷川村と里谷川村)に宛てられた文書には、役所が、前年の川筋の普請にかかった経費のうち、40貫(かん)223匁(もんめ)1分(ぶ)について、13貫400目(め)を「嶋新田(しましんでん)」の普請には15貫573匁3分6厘(りん)のうち、半額の7貫786匁6分8厘を、「御手当銀(おてあてぎん)」として、村に下し置く旨が記されています。この後にも何度か、役人の見聞や普請に関する村々への申渡がみられます。谷川村をはじめとして、水害の被害を受けた村々は、復旧のための普請や陣屋への嘆願などで、何かと忙しい1年を過ごしたようです。

問合せ:社会教育・文化財課(山南庁舎内)
【電話】70-0819