文化 我がまち朝来 再発見(第209回)

■「芭蕉塚」
和田山町竹田にある見星山法樹寺(ほうじゅじ)の境内に『芭蕉塚(ばしょうづか)』と呼ばれる石碑があります。正面に『芭蕉翁(ばしょうおう)』の文字が彫られ、裏面には『世にさかる花にも念仏申しけり(満開に咲いている桜をありがたく思って桜の木に念仏を唱えている人がいるよ)』という芭蕉の句が刻まれています。松尾芭蕉(まつおばしょう)は江戸時代前期の俳人(はいじん)で『奥の細道』などの俳諧紀行(はいかいきこう)で有名な人物です。芭蕉が訪れた地には芭蕉ゆかりの地であることを示す石碑が立っていることがあります。しかし芭蕉が竹田に来たという記録はありません。法樹寺の芭蕉塚は寛政(かんせい)五年(一七九三)に芭蕉没後百年忌にちなんで法樹寺住職の仏舟和尚(ぶっしゅうおしょう)が建立したものです。碑の正面にある『芭蕉翁』の三文字は、仏舟和尚が「三河国(みかわのくに)(愛知県)吉田の橋のかたわらに、白隠禅師(はくいんぜんじ)の書いた『芭蕉翁』の文字を彫りこんだ碑があったので、それを模写してきて彫り込んだ」と記録に残しており、元の碑にあった『慧鶴(えかく)』の落款(らっかん)も模刻(もこく)されています。
芭蕉塚を建立した仏舟和尚は享保(きょうほう)十八年(一七三三)に竹田に生まれ、幼いころに出家し、のちに江戸の増上寺(ぞうじょうじ)で勉学を積みました。その後、各地の寺院で修業を経て故郷の竹田に戻り、法樹寺の住職となります。俳諧(はいかい)(俳句(はいく))に造詣(ぞうけい)が深く、俳号(はいごう)を『魚潜(ぎょせん)』と称し俳諧活動を行っていました。
また、仏舟和尚は京都の俳諧師匠・五升庵蝶夢(ごしょうあんちょうむ)を師としていました。蝶夢は法樹寺と同宗の京都帰白院(きはくいん)の住職であり、住職を辞した後は蕉風俳諧(しょうふうはいかい)(松尾芭蕉およびその門流の俳風のこと)の復興(ふっこう)、芭蕉顕彰事業(けんしょうじぎょう)に力を注いだ人物です。こうした師匠・蝶夢の影響と、仏舟和尚が学んだ蕉風俳諧の祖である芭蕉への敬意が芭蕉塚建立につながったのでしょう。
仏舟和尚は芭蕉塚の建立にあわせて句集『芭蕉翁』を京都の版元・橘屋治兵衛(たちばなやじへい)に依頼して出版しています。内容は芭蕉塚建立の由来を書いた序文のほか、諸国の俳友五十名から募った俳諧が収録されています。句集に作品を寄せた俳諧師たちの住所は、東は越後国(えちごのくに)(新潟県)から西は大隅国(おおすみのくに)(鹿児島県)まで、全二十一カ国におよびます。当時、竹田の仏舟和尚が、俳諧を通じて驚くほど広範囲に交流を持っていたことが分かります。
文化(ぶんか)三年(一八〇六)に仏舟和尚が没すると俳諧門人たちが集まり、遺句一七十余句を集めて遺吟集(いぎんしゅう)『雪仏(ゆきぼとけ)』『伝松岡魚潜連句(でんまつおかぎょせんれんく)』を出版していることから、当時の竹田には俳諧をたしなむ人間が多くいたこともうかがえます。
こうしたバックボーンをふまえると、芭蕉塚は江戸時代の竹田に優れた俳諧文化があったことを現在に伝えるものであることが分かります。地域の歴史を考えるうえで、とても重要と考えられることについて、これからも発信していきます。
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