文化 人権シリーズ 367号

感性豊かな人・まちづくりをめざして
8月15日は終戦の日。今年は終戦から80年の節目の年です。今月は、戦争体験談を掲載します。

《戦後80年、私の東京大空襲》
◆1945年(昭和20年)3月10日の記憶
今回取材させていただいたのは、市川町在住の大坪香代子さんの空襲体験です。大坪さんは戦時中、東京でお生まれになって、7歳の時に昭和20年3月10日の東京大空襲を経験されています。この日の空襲は、東京であった空襲の中でも、最も被害の規模が大きかった空襲で、東京大空襲と呼ばれています。焼夷弾による罹災家屋は約27万戸、罹災者は約100万人、死者は約10万人といわれています。

◆幼少のころ(5~6歳ごろ)の記憶
~夕方になると父親が返ってくるので、近くの駅によく迎えに行っていた。その時に見えた富士山の美しさに手をたたいて喜んでいた記憶がある。今でも富士山を見ると涙が出る。穏やかで平和な暮らしをしていた。~
大坪さんにとってのふるさとは、このころの東京だそうだ。その穏やかで平和な暮らしを一変させたのが東京大空襲である。

◆東京大空襲の日(3月10日)の記憶
夜になり、大坪さん家族はみんな寝静まっていた。そんな中、東京大空襲は始まったのである。記録によると日付が変わった直後の3月10日午前0時7分に爆撃が開始された。
~空襲の知らせは、近所の役員さんか誰かがラッパのようなもので「空襲警報」と叫びながら近所に触れて回る声だった。この声に驚き、家族とともに防空壕への避難を始めた。
その後、防空壕の中で焼夷弾が赤いすだれのようにばらばらと落ちてくるのを見た。避難していた防空壕のあたりにも焼夷弾が落ち、火が回り始めていた。その時いっしょにいた友だちは、防空壕の入り口あたりで両手と首を出して空を眺めていた。次の瞬間、その友だちは「ギャー」という叫び声とともに爆弾の被害を被った。そして、防空壕も安全ではないとみんなで外に逃げた。火の粉が降り注ぐ中を家族で隅田川の橋方面に逃げた。高い堤防を左に見て、その脇を走って逃げた。橋のあたりまでたどり着くと、橋は壊れていて通れなくなっていた。川には、傷ついた人、亡くなった人、たくさんの人々が流されていた。その中を水に入って、向こう岸へ逃げようとした。しかし、小さな妹や弟がいた両親は、その子たちを抱きかかえることはできたが、小学生だった兄と私は自力で川を渡るしかなかった。兄は小学校高学年だったので何とか渡れるが、小さな私にはそれは無理だった。両親は、私に「しばらくここで待っていろ、すぐに迎えに来るから。」と言い残し、川を渡っていった。一人その場に残された私は、風が強く、物や火の粉が飛んでくる中で「父ちゃん、母ちゃん。」と大きな声をあげて泣き叫ぶしかなかった。どれだけ怖かったことか…。
しばらくして、泣き叫んでいた私の近くにいた少年が、「ぼくがおぶって行ってあげよう。」と声をかけてくれて、その少年におぶわれて、川を渡ることができた。対岸で家族と合流できた私は、落ちているトタン屋根の一部を囲いにし、穴を掘って、家族が折り重なるように頭をつっこんで、火が収まるのを待った。
朝になり、火はようやく収まり、穴から這い出た私が目にしたのは、自分を助けてくれた少年の焼け焦げて亡くなっている姿だった。
その後、私たちは避難所をめざし、丸の内方面に向かった。町は、すべてのものが焼き尽くされ、街路樹も何も残っていないような状態だった。焼け焦げた木にもたれかかって亡くなっている人、下半身が焼けただれて動けなくなった人が「助けて、助けて」と泣き叫ぶ姿、多くの悲惨な姿を目に焼き付けながら、避難所をめざして歩き続けるしかなかった。道いっぱいに人が折り重なるように亡くなっている場所もあり、亡くなった人の上を踏みながら移動しなければならなかった。その時の足の裏の感覚は今でもはっきり覚えている。
家族全員が、生き残ったことが奇跡的な出来事だった。~

◆戦争や平和への思い
~戦争はしたくない。二度としたくない。今の若い人たちにも戦争の歴史というものをもっともっと学んでほしい。私は、実際にこの足で、どれだけ焼けただれて死んだ人の上を歩いてきたことか。今思うと、どれだけ悲惨なことか。悲しい。若い人たちにも戦争というものの恐ろしさをもっともっと知ってほしい。自分が戦争で受けたつらい思いをこれからの人にはしてほしくない。~

《編集後記》
貴重な戦争体験の話を聞かせていただいて、大変感銘を受けた。遺族会として戦争体験を語ってくださっている堀尾さんの思い、今回取材させていただいた大坪さんの思い、お二人の思いがまた他の誰かに広がりつながっていく。すべての人が平和を愛し、人権を大切にできる社会になっていくことを願わずにはいられない。

問合せ:生涯学習課 人権教育啓発係
【電話】26-0001