文化 いにしえの風 斑鳩文化財センターだより

■片桐且元(かたぎりかつもと)と龍田城(たつたじょう)
令和8年の大河ドラマの主役が、大和郡山城主で豊臣秀吉の弟の豊臣秀長(ひでなが)に決まりましたが、実は斑鳩町にも、同時代の武将である片桐且元がいました。
そこで、秋季の特別展では、片桐且元とその居城(きょじょう)である龍田城をテーマに展示会を開催します。今月号では、片桐且元と龍田城について紹介します。

◇片桐且元(1556~1615)
且元は、近江国(おうみのくに)(滋賀県)に生まれ、北近江の戦国大名の浅井長政(あざいながまさ)に父とともに仕えていました。浅井長政が織田信長に滅ぼされた後、浅井家の領地を与えられた羽柴(はしば)(豊臣)秀吉が長浜城を築城し、かつての浅井家の家臣であった且元も秀吉に仕えるようになります。
天正十(1582)年に、織田信長が「本能寺の変」で亡くなった後、織田家の後継者をめぐって織田家の筆頭家老(ひっとうがろう)である柴田勝家(しばたかついえ)と秀吉が対立しました。その後、二人が戦った「賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い」で、特に活躍した七人の若き武将(世にいう「賤ヶ岳の七本槍(しちほんやり)」)の中の一人が片桐且元です。
且元は、秀吉が亡くなった2年後の慶長五(1600)年の「関ケ原の合戦」の後、豊臣家の家老として、秀吉の子の秀頼(ひでより)に仕え、豊臣家と徳川家との調定に力を注ぎました。またこの頃、大和国平群郡内(へぐりぐんない)に二万四千石の領地を与えられ、龍田城を居城としました。且元はその後も畿内(きない)(近畿地方)を中心に、秀頼の寺社復興の奉行(ぶぎょう)として活躍し、法隆寺の伽藍(がらん)全域を修理した、いわゆる「慶長修理(けいちょうしゅうり)」の奉行もつとめています。
このように、且元は武将としての働きだけでなく、検地や寺社建築、土木工事の奉行としても活躍しました。
しかし、豊臣家の存続を願った且元の努力もむなしく、慶長二十(1615)年の「大坂夏の陣」で豊臣家は滅亡し、その20日後、且元は京都で亡くなりました。

◇龍田城(龍田陣屋)
北方の矢田(やた)丘陵から南に延びた微高地上の先端部に龍田城は築かれました。そのはじまりは、中世の龍田氏の居城(居館)とされますが、その姿は明らかでありません。龍田城は、且元の子である孝利(たかとし)の時代に完成したと考えられます。龍田藩は明治維新を迎えることなく廃藩し、片桐家も断絶したため、龍田城のようすを知ることはできませんが、片桐家が断絶した元禄(げんろく)七(1694)年の2年後に描かれた「龍田村古図(たつたむらこず)」から、城の内部は、濠(ほり)などにより内郭(ないかく)と外郭(がいかく)の二重構造をしていたことがわかります。現在の龍田城跡は、濠の一部がため池として残り、「追手(おうて)」や「広間(ひろま)「清左衛門屋敷(きよざえもんやしき)」などの地名に、その名残りを今に伝えています。

※展示会の期間中に、龍田城跡をめぐるスポットラリーを開催します。詳しくは広報11月号、または、ホームページをご覧ください。

問合せ:地域振興課(斑鳩文化財センター)
【電話】0745-70-1200

■催し・お知らせ
◇史跡藤ノ木古墳 秋季石室特別公開
日時:11月29日(土)午前10時~午後4時(正午~午後1時を除く)
参加費:無料(事前申込不要)
※荒天の場合は中止。中止の判断は、前日の正午に行い、町ホームページでお知らせします。

◇斑鳩文化財センター 秋季特別展 展示替えに伴う休館日
10月20日(月)~24日(金)
12月8日(月)~10日(水)

地域振興課(斑鳩文化財センター)
【電話】0745-70-1200