文化 わたしのまちの文化財 vol.211 国の登録文化財「淨願寺」「北田家住宅」

6年12月3日に東国分に所在する「淨願寺」と粉河に所在する「北田家住宅」が新たに国の登録有形文化財となりました。「登録有形文化財建造物制度」は、さまざまな要因で消滅の危機にある近代等の文化財建造物を後世に幅広く継承していくための制度です。緩やかな規制を通じて保存が図られ、活用が促されることが期待されています。
淨願寺は、寛永年間(1624~1644)に創建され、刀禰家が代々住職を務めています。伝承によると、刀禰家は福井地方の豪族であったが大坂城での戦いで敗れ、流浪ののち剃髪し僧籍となり、当地に堂宇を建設したとされます。その際、京都本願寺より浄光寺という寺院名と阿弥陀如来を賜りましたが、寺院名が5代将軍綱吉の院号と同じ事から淨願寺と改名され、現在に至るとされます。
淨願寺は、南面に山門を構え、参道を入ると東に宝蔵、西に鐘楼と手水舎が建ちます。敷地の北東には本堂、西側には大きな庫裏が建ちます。本堂は、天明4年(1784)に建設され、明治と昭和に改修されました。内部空間は彫刻や彩色で華麗に荘厳され見応えがあります。庫裏は、正面南寄りに式台を備えた大玄関を設け、床上部は主要八室よりなります。最奥部の御上段の間には床の間と違い棚、付書院を備え、床の間の正面に框を廻し、一段床を高くして上段とするところが特徴的です。現在は「みんなのお寺」として広く門戸を開き、子ども会など、さまざまなイベントの場としても活用されています。
北田家住宅は、粉河寺の東方約200mの位置にある丘陵上に位置しています。元々東川原に屋敷がありましたが、明治時代後期に現在の場所へ移り住んだとされます。以降、代々当地で果樹栽培などを営み、戦前期まで周辺に多くの農地や山林を持つ地主であったとともに、農産物の朝鮮貿易の事業も行いました。明治時代後期に屋敷を構えた際、主屋、離れ座敷、土蔵が次々と新築され、その後、主屋は昭和40年に建て替えられました。今回は離れ座敷と土蔵が登録されています。離れ座敷は、当家では北座敷と呼ばれ、主に客間や結婚式などに用いられました。内部は十畳二間からなり、東を上の間、西を下の間とします。上の間は床の間と違い棚、付書院を設け、床の間の袖壁には左官仕上げで菱形模様を描くなど、凝った意匠としています。上の間、下の間ともに天井を高く作り、良材を用いた上質な座敷であり、庭と一体となって敷地内の景観を整えています。

問合せ:紀の川市文化財保護審議会
【電話】77-2511(生涯学習課内)