文化 わたしのまちの文化財 vol.215

■紀の川市のあゆみ

2025年11月で紀の川市は発足20年を迎えます。今年は明治158年、大正114年、昭和100年、平成37年、令和7年です。こう考えると20年という年月は長くも短くも感じられるかもしれません。こういった節目の年に昔を振り返り、これからを考えてみるのも良いかもしれません。
紀の川市域に人が住み始めたのは、1万数千年前の旧石器時代。狩猟や採集といった自然とともに生活をしていた時代が長く続きました。その痕跡は市内でもごく限られた場所でしか見つかっておらず、人口はとても少なかったことが想像できます。その後、稲作文化が伝わると定住がはじまり、豊かになることで身分の違いが生まれました。古墳時代に市内にもたくさん造られた古墳は有力者の証とも言えます。奈良時代には、和歌山県は紀伊国と呼ばれ、国の華「紀伊国分寺」を建てるにふさわしい場所として現在の東国分の地が選ばれました。平安時代から室町時代には、貴族や大寺社、大名などの力を持つものが地域を治め、さまざまな争いが起こります。私たちが普段目にしている平地や龍門山などにも山城や館が築かれ、今も残る石垣などの痕跡から歴史を知ることができます。そうした群雄が割拠した時代は関ケ原の戦いで終焉を迎え、元和5年(1619)、紀州に初代藩主の徳川頼宣が入城し、徳川御三家として重きをなしました。頼宣に随行した三浦為春は貴志邑1万5千石を治め貴志城(推定地は現・貴志川中学校)を建てました。その後江戸時代は250年以上も続き、街道沿いを中心に村が発展し大いに賑わいをみせました。
明治時代になると「富国強兵」を目指し、近代産業の育成や軍備強化を図っていきます。新しい時代には地域を動かすリーダーがうまれ、その1人に粉河の児玉仲児がいます。仲児は福沢諭吉などに学び、交流のあった陸奥宗光の協力で粉河に猛山学校を設立。また、現在のJR和歌山線の一部である紀和鉄道の敷設に尽力し、和歌山県の発展に貢献しました。
明治時代以降、日本は大きな戦争を繰り返し、戦後80年を迎えた太平洋戦争での敗戦を経験しながら、高度経済成長を遂げ、先進国の仲間入りをしました。市でも戦争で大きな犠牲を払いながらも発展を遂げてきました。「輝く未来へ紀の川市」を目指すには、平坦ではなかった紀の川市のあゆみを知ることも大切かもしれません。

※みなさんの家にもさまざまな地域の歴史を語る資料があるかもしれません。そうした資料の処分を考える場合は、生涯学習課文化財班(【電話】79-3907)に気軽に相談ください。

問合せ:紀の川市文化財保護審議会
【電話】内線74202(生涯学習課内)