- 発行日 :
- 自治体名 : 島根県邑南町
- 広報紙名 : 広報おおなん 令和7年4月号
Eerolla on asiaa
フィンランド出身国際交流員による、フィンランドや邑南町の話
■第19回 フィンランドの歴史(2) 「フィンランドとロシア」
フィンランドの歴史は隣国のスウェーデンとロシアの歴史と深く絡まっています。この2回目の記事でロシアとの関係について短く話したいと思います。
▽スウェーデンの統治→ロシアによる統治
フィンランドは数百年間にわたってスウェーデンの一部でしたが、1808~1809年の「フィンランドの戦争」でスウェーデンがロシアに負けて、フィンランドはロシアの一部に組み込まれました。1809~1917年の「フィンランド大公国」と呼ばれた地域は、ロシア皇帝の統治下にありましたが、行政の設立も含む自治権も定められた国境もあり、国法もそのまま有効にあり続けました。
ある意味でフィンランド人の日常生活はスウェーデン統治下と似たように続けました。その一方、フィンランドはスウェーデンから離れ、民主主義、報道の自由、人権を定めることなどから立ち遅れました。
▽フィンランド人としての独立
仲のいいスウェーデンから一旦離れることが実はよかったとも言われます。こうして「我々は何者なのか」と、改めて考えさせられたからです。
これはついに独立した国の形として、自由を求める志は、1861年にスローガン「我々はスウェーデン人ではない。ロシア人になりたくない。そしてフィンランド人であろう」になりました。1800年代の後半からは、フィンランド語の書き言葉としての使用も増えました。
▽ロシアとの歩みとフィンランド独立
前に述べたような経緯はロシア皇帝の慈善によりました。寛大な皇帝のアレクサンドル2世の支配下で、様々な望ましい改善が行われました。彼の像は今もヘルシンキの元老院広場に立っています。
逆にニコライ2世はフィンランドをロシア化したく、それまでに得た国の行政、言語、言論の自由などを喪失しかけました。このフィンランド人の反発を招いた発展は結局1917年の独立につながりました。国内も紛争が起こり、すぐ1918年の始まりに短い内戦がありました。
ロシアとの戦争はすぐ起こりませんでしたが、第二次世界大戦の間に世界でもよく知られている1939年の「冬戦争」と1941~44年「継続戦争」が起こりました。
▽現在のロシアとの関係について
1945年以降と冷戦時代にフィンランドは民主主義がある西ヨーロッパの一部として発達していきましたが、地理の上でロシアとの関係も無視できず、いい釣り合いを探していました。ソ連崩壊後、フィンランドは一方安堵のため息をつきましたが、改めて絆を築くことにも力を入れました。ロシアとの経済的な交流と観光が盛んな時もあり、ロシア語の能力もある程度要求されました。
フィンランドは国境の東側が2024年から閉じられていますが、これはウクライナ戦争の影響で、NATOに加盟していたのはその前から(2023年加盟)です。この状態は、民主主義と国民や隣国の人権を大切にするフィンランドもヨーロッパ各国と一緒にウクライナへの揺るぎない支援を選んだからです。
将来にロシアとの協力と友好関係を結ぶためにロシアはまず色々な政治等の改善を行わなければならないということは最近多くのフィンランド人の意見だそうです。