文化 【シリーズ 第186回】新町の弥生遺跡の発見

香々美新町は、津山藩主森家の街道整備事業により、宿場町として計画的に新設された町です。宿場町とは、江戸時代の主要街道の一定の距離に設置された町で、旅人が宿泊する宿や物資の取り次ぎ・輸送を行う問屋、茶屋をはじめ各種店舗が整備されていました。

宿場町が整備されるはるか昔、今から約二〇〇〇年前の弥生時代にも新町には集落が存在していました。この弥生遺跡は昭和九年(一九三四年)に発見され、その概要は当時新町に在住していた中島政雄氏によって『香々美の石器及土器』という冊子にまとめられました。

宿場町には道路の中央に水路が通っていることが特徴で、新町の宿場町も古写真を見ると例外ではなく道の中央に水路が存在します。しかし、明治時代以降、交通が発達して車両の往来も多くなってくると、中央の水路が車両通行の支障になることから、徐々に道の端へ付け替えられることになります。新町の弥生遺跡は、この水路の付け替え工事の際に発見されました。

前述の冊子によれば、時代の趨勢(すうせい)で道路が四間(約七・二メートル)幅コンクリート石垣の現代的県道に改修されることとなり、水路が道の片側に付け替えられることになりました。工事は昭和九年十月中旬から始まり、年内完了の予定で水路は西側の人家に沿って幅一・二メートル、深さ〇・九~一・二メートル、長さ約三三〇メートルを掘削しました。

中島氏は、この掘削された水路の断面に見える地層を詳細に観察し、この新町の元々の地形が緩やかな斜面状であったこと、江戸時代の宿場町整備の際にこの緩斜面に盛り土を行い平地に造成して建物が建築されたことを確認しました。さらに造成前の地形から約一五~四五センチ下には黒褐色の土の層があり、この土の中からは土器の小さな破片が見つかることがわかりました。中島氏は注意を怠らず工事の進捗を見守っていると、地蔵堂から岸旅館の前あたりに多くの弥生土器の破片が出土し、さらにその隣接する地層からは上部径約九メートル、底部径約五・四メートル、深さ約八五センチの穴の断面が見つかりました。この穴の底部は火によって焼けており、その上の埋土には木炭や灰、粘土が含まれていたことから、中島氏はこの穴を土器を焼いた窯跡と推定しています。

さらに翌日、この窯跡から北に九メートル先と南にある郵便局の前から石庖丁(稲の穂を摘む石器)が各一点発見され、数日後には小型の石斧も見つかりました。この冊子には出土した数々の土器片と石器のスケッチが掲載されていますが、この土器の特徴から弥生時代中期後半(約二〇〇〇年前)の遺跡であることがわかります。中島氏は大正十五年(一九二六)に自宅近くの桑園で石斧を採集し、この頃から渓流があり香々美盆地を一望の下に眺めることのできる台地に位置する新町一帯には、有史以前の遺物が出土するものと期待しており、今回の発見を「歓びに堪えない次第である」と結んでいます。

この冊子は、新町に弥生時代の集落が存在したことを明らかにしただけではなく、記紀の神話を歴史的事実とみなす風潮が強く、考古学という分野が一般的ではない戦前において、現代に通用する歴史観と観察眼をもって記録を残したという点においても高い評価ができる資料です。

参考:『香々美の石器及土器』『鏡野町史』

問合せ:鏡野町教育委員会 生涯学習課 日下
【電話】0868-54-0573