- 発行日 :
- 自治体名 : 広島県府中町
- 広報紙名 : 広報ふちゅう 2025年4月1日(No.1134)
■第51回 府中が農村だったころ(11)~棚田と「農士を称える碑」(2)
「農士を称える碑」は前回紹介した左下図(1)瀬戸ハイムの他、(2)桜が丘団地横の林間、(3)水分峡(みくまりきょう)入り口手前の林間と町内に3か所建っています。(2)(3)の2か所は谷間の狭い土地で、高い木がうっそうと茂(しげ)り日も当たらない、ここで稲作ができたのかという土地ですが、ここにも棚田があったのです。
3つの石碑の碑文と建立者筒井留三氏の名前は同じなのですが、肩書が全て違います。(1)の石碑は「財団法人広島青少年文化センター理事長筒井留三」、(2)は「広島県青少年活動奉仕協会会長筒井留三」、(3)は「筒井留五郎・孫筒井留三」です。筒井留三氏は現在広島市南区大州5丁目に本社があるポンプ・タービンの専門メーカーとして世界トップシェアを誇る株式会社シンコーの創業者です。同社の社史によると留三氏は明治34(1901)年に府中村で生まれ、父は海産物・肥料・石灰・建築資材を扱っていましたが、留三氏は昭和13(1938)年に株式会社シンコーの前身新興金属工業所を創設します。留三氏は、経済人として活躍するとともに人材育成にも貢献し、昭和38(1963)年に次代を担う青少年育成のために財団法人広島青少年文化センターを設立し、理事長に就任します。府中町の日焼山(ひやけやま)上の出雲大社を模した建物は町内の人には見慣れた風景でしょう。また青少年のボランティア活動、国際交流活動推進のために広島県青少年活動奉仕協会を設立します。
(3)の碑文で注目したいのは「筒井留五郎・孫筒井留三」です。留三氏が石碑を建立したのは74歳の時です。この年齢なら祖父は存命してないと考えてよいでしょう。なぜあえて祖父の名前を記したのか。父は雑貨販売業だったのですが、幼い留三少年は祖父が額に汗を流し、棚田を一歩一歩と登り碑文に記されたような農作業をする姿を見ながら育ったのではないでしょうか。留三氏は85歳で亡くなります。
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府中町文化財保護審議会委員 菅 信博