文化 〔郷土史コラム〕やないの先人たちの知恵と汗-中世編

■毛利軍の防長侵攻(8) 琴石山へ城を構築
市教育委員会 社会教育指導員 松島幸夫
大内氏の傘下にあった楊井(柳井)地域が、毛利氏の支配下に組み込まれる発端となったのが、弘治(こうじ)元(1555)年に起きた厳島合戦です。弱小の毛利軍が陶(すえ)晴賢(はるたか)率いる強大な大内軍に勝利するとは考えられなかったのですが、毛利(もうり)元就(もとなり)の奇襲作戦が功を奏し大内軍は壊滅しました。続いての毛利軍の防長侵攻では、楊井地域へ小早川(こばやかわ)隆景(たかかげ)の部隊が侵攻してきました。日積や伊陸が武力鎮圧され、神代や楊井津が恭順した様子を前回までに紹介しました。
さてそうして手に入れた楊井地域を、その後は小早川軍が外敵から守らなければなりません。とくに豪商たちが館を構えている楊井津は軍事的にも経済的にも重要な地ですから、死守しなければなりません。敵は瀬戸内海を渡って来る可能性があります。防備を完璧にしたい小早川隆景は船上から周囲の地形を望んで、琴石山の急峻な山稜(さんりょう)が城づくりに相応しいと判断しました。部下に命じて探索させると「山城に適した地形です。しかも日積からは難なく登れます」との報告がありました。すぐに正覚寺(しょうかくじ)守恩(しゅおん)を呼び出し、琴石山に山城を築かせました。小早川隆景が家臣として安芸国(あきのくに)から連れてきた守恩は、由宇の正覚寺の住職に就いていましたが、もともと僧侶ではなく勇猛果敢な武士でした。小早川軍が手に入れた由宇村、日積村、伊陸村などで租米の徴収をスムーズに行い、農民を従順にさせる使命を帯びて寺の住職になった人物です。新領地での支配に、仏教の権威を利用したのです。さて急峻な琴石山の上に築かれた城の強固な構えについては次回に紹介します。

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