- 発行日 :
- 自治体名 : 山口県柳井市
- 広報紙名 : 広報やない 令和7年10月9日号
■毛利本家を支えた吉川(きっかわ)元春(もとはる)と広家(ひろいえ)
市教育委員会 社会教育指導員 松島幸夫
前回まで、厳島合戦の勢いに乗った毛利軍による防長地域への侵攻の様子を紹介してきました。今回からは、岩国領を支配した吉川氏について紹介していきます。
江戸時代になると現柳井市の北側半分は、吉川氏が支配をします。吉川氏の先祖は、平安時代には、駿河国(するがのくに)吉川(現清水市)の地に住んでいました。やがて源氏を味方したことによって播磨国(はりまのくに)福井(現姫路市)の地頭に任命され、さらには安芸国(あきのくに)大朝(現北広島町)の地頭に任命されました。地頭として安芸国の村々に配置された吉川氏、毛利氏、宍ししど戸氏、小早川氏、香川氏、熊谷(くまがい)氏など数多くの武将が村々の警備を行いました。安芸国には多くの武将が併存しており、「ブドウの房」のような状況を呈していました。一方で防長国(現山口県)は大内氏が全域を支配する「一枚岩」でした。
戦国時代になると、「ブドウの1粒」であった毛利元就が、婚姻や養子縁組を有効に利用しながら勢力を拡大します。長男の隆元(たかもと)には毛利家を継がせましたが、長女の五龍(ごりゅう)を宍戸家に嫁がせ、次男の元春を吉川家の養子にし、三男の隆景を小早川家の養子にしたのです。元就は元春と隆景に、「養子として他家に入ったものの、毛利本家を大切にせよ」と言い聞かせました。兄弟たちの堅い絆は、1本の矢は折れるが3本の矢(サンフレッチェ=三本の矢(フレッチェ)の意)は折れないという寓話になっています。婚姻や養子縁組による毛利連合を成立させると、その他の武将も次第に傘下に入れていきました。
やがて吉川元春の子である吉川広家は、毛利元就の孫である毛利輝元を支えることになります。毛利輝元には軽率な面があったので、勇猛果敢で知将の吉川広家が背後で策略を巡らせることがありました。関ケ原の戦いの際には徳川家康と密約を交わして、毛利本家の領地120万石を守ろうとしました。ところが西軍が敗れると家康は広家との約束を反故(ほご)にして、毛利家の領地を縮小して防長36万石に押し込め、吉川家には防長の東端(とうたん)3万石を与えることにしたのです。
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