文化 特集 戦後80年 未来へつなぐ平和のメッセージ(1)
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- 発行日 :
- 自治体名 : 香川県三豊市
- 広報紙名 : 広報みとよ 令和7年8月号
戦争を実際に体験した世代が少なくなりつつある今、記憶を未来へ伝えていくことが重要です。
子ども時代に戦争を体験した人々の声を通じて、戦争の悲惨さや尊い日常のありがたさに思いをはせ、未来に向けた平和へのメッセージをつないでいきましょう。
■つなぐ、あの頃の思い
◆人の命は地球より重い。300万人を犠牲にした憎き戦争
矢野 文雄(ふみお)さん(91歳・財田町)
7~11歳ごろ、太平洋戦争を経験した。
招集された父が戻らぬ中、母と3兄弟で力を合わせて生き抜いた。
あの戦争で得たものはあったのか…。
昭和16年12月、国民学校の初等科1年生のとき、日本国が真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が開戦しました。
当時は、トンボ草履を履き、教科書が入った風呂敷包みを背負って登校していました。各学校に設置されていた奉安殿(ほうあんでん)※の前で最敬礼をし、天皇陛下の赤子(せきし)(陛下の子)であることを誓ってから授業が始まります。放課後は、運動場から、防空壕(ごう)と芋畑に変わり果てた畑で農作業。夏休みの宿題は、軍馬(ぐんば)に与える干し草作りでした。
初等科3年生になった時には、『お国のために死ぬことが自分の使命だ』と思うようになっていました。父も、私を士官学校※へ進学させようと決め込んでいた矢先、30代半ばの父に思いがけない召集令状が届きました。そして入隊してわずか3日後に、満州へ向けて出征しました。出征の日、見送った際に話したことは覚えていません。
その後は、村内にも疎開者が増え始め、農家でも食糧が不足するようになり、子ども心にも様子がおかしいと分かっていました。しかし、私が立派な軍人になることを期待して出征した父の意思を大事に思い、何の疑念も持たずに初等科の5年生になりました。
そのころ、高松でも空襲があり、村の上空を悠々と通過していくB29爆撃機※の後ろで、日本軍の高射砲の弾が炸裂しているらしい白煙が見えました。実戦体験は、これを見たことぐらいです。
初等科5年生の8月15日、朝から空襲サイレンも鳴らず、妙に静かな日でした。夏休み中でしたが、学校に行っていました。そこで先生から終戦を知らされましたが、その後何カ月も父からの音沙汰はありませんでした。
後から聞いた話では、父は、敗戦後の満州から脱出したもののシベリア捕虜となり、そこで栄養失調から餓(が)死したとのこと。丈夫であった父は、衰え行く自分の体から、おそらく死を予期したであろう、その時の無念さが痛いほど胸に突き刺さりました。
あの戦争は、罪なき300万人以上の命を犠牲にした、悲惨な人災です。亡くなった兵士たちは、死の直前に「天皇陛下万歳」と叫んだのか、ふるさとや家族の顔が脳裏に浮かんだのか…今となっては、知るすべもありません。
今の私たちにできることは、このような人類の最大の過ちを二度と繰り返さないために、未来を作る子どもたちに伝えていくことです。
※奉安殿(ほうあんでん)とは…戦前、全国の学校などで皇室の御真影(ごしんえい)や教育勅語(ちょくご)を保管・掲示するための神聖な施設。戦後には、ほとんどが撤去された。
※士官学校とは…軍隊の士官(将校)を養成する軍学校。
※B29爆撃機とは…第二次世界大戦時にアメリカが開発した、高性能で長距離航続ができる戦略爆撃機。
昭和20年7月4日未明に起きた高松空襲では、アメリカ軍の116機による106分間もの執拗な攻撃で、8万人以上が死傷する被害をもたらした。
■決して忘れぬ、記憶を胸に
◆頑張るよりほかになかった。日本中が大変なとき、皆で支え合い
西村 忠臣(ただおみ)さん(86歳・豊中町)
6~7歳ごろ、実家の神社で疎開児童を受け入れていた。
当時、忠臣さんを含む4兄妹を育てながら、疎開児童の面倒を見ていた父母は、どんなに大変であっただろうか…。
昭和19年の秋、祖父が疎開児の荷物をたくさん乗せた荷車を引く後ろに、約30人の学童が並んでうちへとやって来た記憶が鮮明に残っています。その日から、我が家は戦場のような毎日が始まりました。
疎開してきたのは、大阪市港区南市岡国民学校の3、5、6年生の計91人と5人の先生で、我が家を含む本山周辺の旅館や寺など、5カ所に分宿したそうです。
我が家で受け入れたのは、生後6カ月の乳児と2歳児を連れた先生が引率する、3年生30人でした。学童の食事や洗濯、衣服の修繕などは、母と近所の主婦が2人で対応していました。そのうえ、母は私を含む4人兄妹の世話もしていたので、想像を絶する状態であっただろうと思います。この時、母は『お国のために』という合言葉を心の支えとし、日本中が大変な時だから、頑張るよりほかになかったと言っていました。
生活はとても厳しく、配給の食糧だけでは食べ盛りの子どもにはとうてい足らず、空腹で眠れない子たちは、毎晩のように夜中に台所に来ては井戸水を飲んでいました。また、お風呂には、3、4日おきにしか入れず、ノミやシラミが湧き、晴れた日には全員が裸になって衣類を干したり、這(は)い出してくるシラミを捕まえてつぶしたりしていました。夜になると故郷や家族を思って泣きわめく声に、子どもながら重いものを感じ、今でもその声は耳に残っています。
昭和20年3月に入り、6年生が卒業のために大阪に帰ってから、残った子どもたちは里心がついたのか、疎開先を抜け出すようになりました。それらの子を探しに行く祖父は、「疎開の子は不憫(ふびん)じゃ。親に会いたかろうに」と顔を曇らせていたのが記憶に残っています。
終戦後は、家族が子どもたちを迎えにきて次々と連れて帰りましたが、家族の来ない半数近くの子は、9月末ごろまでいたと思います。
戦後から数十年経過したある日、我が家に疎開していたという人が訪ねてきました。
その人は「大阪へ帰りたくて線路を歩いていたが、空腹で歩けなくなったところを連れ戻された。空腹で眠れないときは、親が枕の中へ入れてくれた空豆をこっそり食べた。
本山の他の場所に疎開していた3歳上の姉が、卒業式のため大阪へ帰るときに会いに来て、小豆入りのお手玉をくれたが、それもこっそり食べた。しかしその姉は、3月14日、卒業式の前夜から早朝にかけた大阪大空襲で亡くなった。そのことは、秋に大阪へ帰ったときに初めて知らされた」と、ため息交じりで話されました。私には想像もできない半生を送ったこの方の言葉の全てに、日本の一時代が凝縮されていると実感しました。
人の生活や文化を壊してしまう戦争はあってはならないこと、また今ある平和で安全な暮らしは当たり前ではないということを、後世に伝えていくことが、戦争体験者の使命ではないでしょうか。