- 発行日 :
- 自治体名 : 高知県香美市
- 広報紙名 : 広報香美 2025年9月号
■第53回 談議所の起源(土佐山田町)
談議所(だんぎしょ)とは、物部川右岸、神母ノ木(いげのき)の対岸の集落を言う。この地名の起源を考察すると、銅鐸が出土しているので、西暦300年以前に村長(むらおさ)が率いて大和大王家に知られた村だったと考えられる。加えて、中世に交通の要衝を形成し、鏡(香我美)郷の中心地であったものであろう。
(1)物部川北岸往還は、談議所-佐岡から韮生郷に入り、朴ノ木の政所に至る。
(2)神母ノ木から間を韮生郷美良布へ、逆川から東佐古へも通じる。
(3)物部川(鏡川)は、談議所から旧枝流路(舟入川)で浦戸へ出られたものらしい。
(4)暴れ物部川は、江戸時代初期に現在の流路に定まったらしい。
(5)物部川の水運は、西暦580年頃、大忍荘主の物部氏が、南国市物部で抑えていた。
(6)香南市野市町深渕は、河口湊を思わせ、鎌倉の幕府の外港横須賀や長浦に航路を想像させる。
(7)南国や野市地区へ、古くから小規模の取水口があったようである。
このように、陸路と水運、取水口としての要所であった。鎌倉時代初期、中原大中臣太郎秋家は、宗我部郷・深渕郷の地頭に就任してすぐに山田郷楠目城に移って山田氏を称した(東鑑・土佐山田町史)。鎌倉幕府は、武家の支配体制構築を強力に進めたことが知られており、土佐守護の佐々木経高と合議、地頭は、談議所の重要性に着目して拠点を移したのであろう。幕府は弘安9年(1286)7月、北九州に鎮西談議所を置いている。合議制の裁判所のことである。
こうしたことから、談議所には現在の家庭裁判所のような機能の官庁が置かれ、主催したのが山田氏ではないだろうか。以降、山田氏は350年ほどを要し、山田元義の代へ15代ほどで土佐の七雄に成長したことになる。「わしの後には、守護様を通じて幕府が控えておるぞ」と、横車も押したであろうことは容易に想像される。雪ヶ峰砦で陸路と水運、利水を統制し、菩提寺「吉祥寺」に七堂伽藍をも構築して蓄財していた。
織田信長が本能寺で討たれたのは、寺院は簡易な防戦の機能も備えており、宿舎にしたものであった。山田氏が楠目城を構えるのは元弘3年(1333)以降。南北朝で争乱し、長禄元年(1457)、山田基道の代に完成したと考えられる。守護細川氏が健在の時、城塞を構えることは無いであろう。反旗を翻すことになる。この一文は談議所の地名の起源を探ったもので、一つの仮説に過ぎない。
(香美市文化財保護審議会・岡村)