文化 [新]香美史探訪記

■第54回 美良布神社の狂言芝居

大川上美良布神社では、元文・寛保(1736~1744)年間から奉納芝居が行われるようになった。お城下では、藩命によって禁止されていたが、山や浦では禁が緩かったらしく、「豊作祈願お聞き届への御礼」という口実らしい。お通夜殿には人力の廻り舞台も構え、境内に観客が溢れたという。
「菅原伝授手習鑑(かがみ)」は、菅原道真の大宰府左遷を北野天満宮縁起から脚色された浄瑠璃芝居で、歌舞伎にも取り入れられた人気演目だが、延享三年(1746)、上方竹本座で初演されたものという。この演目が翌年、土佐の山間僻地の美良布神社境内で演じられた。
幕藩体制では生活や行動に厳しい制限を受け、遠流(おんる)の国の田舎に半年ほどで台本が届いたとすると、特別なツテがあったと考える以外ないが、文化の驚く浸透力である。24時間のテレビ世代は、ラジオもテレビもない時代が想像できるだろうか。戦後の映画館が全盛の時代をご存知の方には、韮生住民の熱気が想像いただけよう。
大坂と韮生産品の商取引のあった山田野地の「大津屋」あたりが関わっているのであろう。お城下に出たことのある者も少ない山村であるが、文化水準の高さか、農村に余裕が生まれ始めた頃かも知れない。寛政元年(1789)頃、韮生谷に和食から「カラ芋」が伝わって、農民生活に余裕が出て来たと言われている。談議所で「美良布の芝居、あれは太布(たふ)狂言じゃ」と評していた話が伝わる。植物繊維で織った着物を使う程度の低いものの意味と思われるが、韮生農民の熱気への妬みに聞こえる。山田野地の芝居小屋「永楽座」が開業することへ連なり、「須江高野家文書」にも謡曲本、浄瑠璃集がある。ドッコイ、街に居住する田舎をヤシベル(いじめる)者に恰好の反撃材料として推薦する。現代とこの時代を比べて浴している恩恵を思うのも無駄ではない。
※参考資料『韮生遺談』竹内重意
(香美市文化財保護審議会・岡村)