文化 末松謙澄の師 村上佛山を巡る人々(完)

村上仏山(ぶつざん)は天保六年(一八三五)に上稗田村に私塾「水哉園(すいさいえん)」を開き、末松謙澄をはじめ優れた人材を数多く育てた教育者、漢詩人。この連載では仏山と関わった人々を通して、江戸時代から近代の学問や教育について考えます。

◆日田の豪商・広瀬本家とその事業
日田の私塾咸宜園(かんぎえん)の塾主広瀬淡窓(ひろせたんそう)は、漢詩人・教育者として全国的にその名が知られていた。しかし嗣子がなく、弟の旭荘(きょくそう)が二十五歳離れた兄・淡窓の養子となり、咸宜園を引き継ぎ第二代の塾主になった。旭荘の詩才は、師である亀井昭陽(かめいしょうよう)に賞讃され、それを慕って咸宜園を訪れる者も多かったという。
この旭荘と村上仏山は、生涯の友であった。仏山の師・原古処(はらこしょ)の娘の采蘋(さいひん)が文政八年(一八二五)の正月に福岡の亀井塾で二人を引き合わせた。この采蘋も仏山が慕った数少ない師の一人であった。当時、旭荘は亀井塾の塾長で二人は意気投合したのだろう、筥崎宮の玉せせりを一緒に見に行き親しくなった。のちに仏山が詩集を刊行した時、旭荘は快く序文と評文を、淡窓は眼の病をおして題言を寄せた。
広瀬本家は、日田代官所の御用達であり、掛屋(かけや)を兼ねた。掛屋は代官所に入る年貢米を取り扱い、その代金を保管する。そのため財政難にあえぐ九州諸藩は日田商人から金を借りた。これを大名貸しといい、天領の公金であるため貸し倒れが無く、日田の掛屋は莫大な富を蓄積した。広瀬本家の掛屋・博多屋をはじめ七、八軒の掛屋が動かす〈日田金〉は二〇〇万両に上るといわれ、常にその半分は九州の諸大名への大名貸しにまわっていた。主な藩は、小倉藩二〇万七〇〇〇両、久留米藩九万六〇〇〇両、福岡藩一〇万二〇〇〇両、このほか三、四万両を借りていた大名は多数あった。
《広瀬本家の主な事業》
・豊後国日田郡小ヶ瀬井路(おがせいろ)、豊前国宇佐郡広瀬井路の開削
・三隈川と中城((なかじょう)川を浚渫(しゅんせつ)して筑後川へ舟運を開く
・豊前海岸の干拓にあたり、千数百町歩に及ぶ新田開発など
これらの功により、一代帯刀を許された。さらに対馬藩田代領の借財整理、豊後府内藩の財政改革をまかされた。なお、広瀬勝貞元(ひろせかつさだ)大分県知事(平成一五年四月~令和五年四月、五期二〇年)は、広瀬本家の子孫にあたる。
(末松謙澄顕彰会 濱田輝夫)

◆『仏山堂詩鈔(ぶつざんどうししゅう)』の刊行に奔走した安広仙杖(せんじょう)(紫川(しせん))
仙杖(名は訥(とつ)、通称は一郎、号は紫川)は、文政十二年(一八二九)豊前国仲津郡大野井村(現在の行橋市大野井)の安広家の出身で、村上仏山の妻お久の十歳下の弟。小倉足原の広寿山で僧万丈の法弟という僧籍にあったが、度々姉お久の嫁ぎ先である水哉園を訪ねては泊って行き、塾生たちにも人気があった。
一方、仏山が『仏山堂詩鈔』の編纂を思い立ったのは弘化三年(一八四六)、完成したのは六年後の嘉永五年秋のことだった。年老いた母を喜ばせるためにも何とか刊行を実現したかった仏山。しかし、いくら素晴らしい詩集とはいえ片田舎ではどうすることもできない。京都や大坂あたりの名の知れた詩人の紹介や推薦が欠かせなかった。
そんな折、広島の坂井虎山(さかいこざん)の塾に入門したと思われていた仙杖から思い掛けない便り、京都の池内陶所(いけうちとうしょ)の塾に入門しているという。仏山にとってはこの上ない吉報。即刻京都の仙杖に宛てて手紙を書き、約二十年前貫名海屋(ぬきなかいおく)の塾で共に学んだ池内陶所への依頼文を同封した。池内からは全面的に協力したい旨の返書があり、池内を通して京大坂の一流詩人達の序文や批評文を得ることができた。この間、事の仔細はその都度仙杖から仏山に便りされ、仏山からは細々とした指示が仙杖に届けられた。
『仏山堂詩鈔』は安広仙杖なしでは世に出なかったかもしれない。
嘉永五年(一八五二)十一月『仏山堂詩鈔』が世に出てから漢詩人村上仏山の名は広く天下の知るところとなり、以後は水哉園を訪ねる知名士が急増、池内も水哉園を訪れ仏山と涙と喜びの再会を果たしている。
『仏山堂詩鈔』完成の翌々嘉永七年、仙杖は筑前国遠賀郡山鹿村の塾の師範として招かれている。更に元治元年(一八六四)小倉藩主小笠原侯に召されて仲津郡大橋村の御茶屋で子弟の教育に当たったとも云われる。その後、元永村でも教鞭をとった。
晩年は小倉に閑居し、明治三十四年(一九〇一)その地で没した。享年七十三。
(末松謙澄顕彰会 徳永文晤)