- 発行日 :
- 自治体名 : 福岡県行橋市
- 広報紙名 : 広報ゆくはし 令和7年10月号
◆私塾(蔵春園(ぞうしゅんえん))を創設 恒遠醒窓(つねとおせいそう)
京築地方には、幕末から明治にかけて二つの私塾があった。上毛郡薬師寺村(現豊前市)の蔵春園と京都郡上稗田村(現行橋市)の水哉園だ。
蔵春園を開いた恒遠醒窓は、享和三年(一八○三)生まれ。文政二年(一八一九)十六歳の時、日田の広瀬淡窓の私塾・咸宜園(かんぎえん)に入門。五年間学び、塾頭(塾長)を務め、文政七年(一八二四)、二十二歳の時、長崎に遊学したあと、帰省して薬師寺村で私塾・蔵春園を開いた。文久元年(一八六一)逝去。享年五十九。生前、漢詩集『遠帆楼詩集(えんぱんろうししゅう)』二巻を出版している。
恒遠醒窓は村上仏山より七歳年上で、仏山が水哉園を開いたのは蔵春園開設の十一年後のことである。
蔵春園での学習は、素読、輪読、講義、討論会、独見会(研究発表会)、作文、詩作などだった。学級は十級に分け、まず、十級から出発し、学力の向上に伴い進級させた。毎月の試験結果は全員分が発表された。これらは咸宜園の制度を見習ったもので、仏山の水哉園の制度ともよく似ている。
蔵春園は、醒窓の没後はその子精斎(せいさい)が継承し、明治二十八年(一八九五)まで七十年間続いた。塾生は九州をはじめ西日本各地から三千人にのぼり、優れた人材を輩出した。
醒窓の安政六年(一八五九)の日記に「村上仏山来訪」とある。醒窓五十六歳、仏山四十九歳の時である。醒窓には六歳年下の弟、西秋谷(にししゅうこく)がいた。彼は日田咸宜園に入門。塾頭を務めた後、長崎で蘭学を、熊本や京都で医学を学び、小倉藩医の西董庵の養子となった。秋谷は藩主の侍医を務めたが、明治二年(一八六九)、五十四歳の時、豊津育徳館内に開かれた医学寮の教頭に就任。この時から明治十二年に仏山が没するまでの十年間、秋谷と仏山の詩のやりとりは続いたという。秋谷は医学者のみならず漢学者、漢詩人としてもその名を知られた。
(村上仏山・末松謙澄顕彰会 山内公二)
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