文化 太宰府の文華~公文書館だより(135)~

■菅公(かんこう)に重ねた想い〜三条実美(さんじょうさねとみ)、父への手紙

明治新政府で岩倉具視(いわくらともみ)とともに副総裁となる三条実美は、太宰府と大変縁深い人物です。摂関家に次ぐ家格の出身である実美は、幕末の京都で攘夷派公卿(じょういはくぎょう)の先頭に立つ存在となります。人望が厚かった父・三条実万(さんじょうさねつむ)の遺志を継いで、文久期の京都の政局を強烈にリードしますが、ほどなく起こった文久3(1863)年8月18日の政変で京都を追われてしまいます。実美は他の公家(くげ)とともに太宰府まで落ち延び、許されて京都に戻るまでの3年間を太宰府で過ごしています(五卿落(ごきょうお)ち)。
さかのぼって安政5(1858)年6月19日、大老・井伊直弼(いいなおすけ)が勅許(ちょっきょ)を得ずに日米修好通商条約に調印し、朝廷で大問題となります。この時、前の内大臣・三条実万が中心となって、井伊大老に反感を持つ水戸藩を巻き込み、天皇の命により幕府に内政改革や海防などを行わせようと画策し8月にこれを密勅(みっちょく)として下すことに成功しました。これに対して幕府は朝廷内の憤懣(ふんまん)や反井伊勢力を抑え込むため、密勅を下すのに関わった者たちの検挙を開始。三条家でも逮捕者が相次ぐ事態となってしまい(安政(あんせい)の大獄(たいごく))、実万は京都を離れ、隠れて暮らすことになりました。
実万の失脚後、実美はしばしば父の元に書状を送り、その境遇を慰めています。安政6年4月には実万に落飾(らくしょく)と謹慎が命じられ、状況はさらに悪くなってしまいます。そんな中、実美は著名な歴史物語『大鏡(おおかがみ)』の中に、菅原道真(すがわらのみちざね)が自身の潔白を詠んだ歌「海ならずたたえる水の底までも 清き心は月ぞ照らさむ」を見いだし、現状と重ねて父を励ましました(内藤一成(ないとうかずなり)著『三条実美』)。
その後に実万は病にかかり、9月には実美自ら父を見舞いますが医師の見立ては厳しく、翌10月に自宅に戻されてからほどなくして亡くなります(『三条実美公年譜(ねんぷ)』)。以後、実美は父の遺志を継ぐ攘夷派として、京都で冒頭の活躍を見せることになりますが、自身も父と同じく政争に敗れて京都を離れ、さらに西へ下るという苦難の日々を送ることになりました。
この時、かつて父の心中を思いやって書き送った、道真の歌を自身にも重ね、実美は身の潔白を「月よ照らせ」とばかりに祈りながら太宰府までやって来たのではなかったでしょうか。

太宰府市公文書館
藤田(ふじた)理子(まさこ)
ページID:7241