- 発行日 :
- 自治体名 : 佐賀県鳥栖市
- 広報紙名 : 市報とす 令和7年9月号
先の大戦のご遺族でもある宮原寛之さんにお話を伺いました。
「終戦が10歳のときなので、覚えていると言っても限定的で、身の回りのことしか話せないと思いますが…」と宮原さん。
宮原さんが住んでいた地域は、櫨(はぜ)の木の畑がたくさんありました。戦争が激しくなり、その木の下が弾薬置き場となり、弾薬を木箱に詰めて積んだものにシートをかぶせ、木の枝が載せられていました。宮原さんは、多くの兵士が山の麓に道を作り、横穴を掘って弾薬を入れる弾薬庫を作ったり、軍事訓練をしている様子を見ていたそうです。
「僕が小学校三年生の頃だったか、ここら辺にも空襲がありまして、B29がいっぱいきて、大刀洗の飛行場からも迎撃用の戦闘機が飛び立ったり、それが空中戦やったり…僕はそのとき、学校の防空壕に入っていて、落ちていく音はグワーンと、ものすごく大きな音でした」
宮原さんはお宮で行われていた小学生の集まりで、よく歌を歌っていたそうです。その頃のお宮は兵士たちの野営地となっており、歌を歌う子がいると兵士たちの噂になり、いろんな隊から依頼が寄せられるようになっていました。
「櫨の木から櫨の木に蚊帳をつってですね、ろうそくを立ててもらって、歌を歌ってくれと言われて歌う。というようなことをしていたんです」
それが評判となり、兵士たちが野営している田代小学校や、田代新町のお宮へも呼ばれて歌を歌いに行かれたそうです。宮原さんは、食料品工場を営む家に生まれ、戦時中でも比較的暮らしは豊かでした。ラジオやレコード、工場で働く人の影響で、その頃に流行していた歌謡曲は何十曲も覚えていたそうです。「全然何のことかは分かりませんが丸覚えで歌詞も覚えてましてね、リクエストがきたって、10曲20曲なら平気で歌えてたんです」
その中でも、必ずリクエストがあるのが『誰か故郷を想わざる』。この曲を歌うと、必ずすすり泣く声が聞こえてきました。その頃の宮原さんにはなんで泣き声が聞こえてくるのか分からなかったそうです。
「隊長さんみたいな人に『なんで日本の兵隊さんは世界一強いというのに僕の歌を聞いて泣くのか』と聞いたことがあるんですよ。そしたら『あの人たちは決して弱いけん泣きよっとやない、みんなあんたみたいなこどもをくにに残してきていることを思い出して、必ずあんたたちが生きていけるように、自分たちががんばると、涙を流している』と言われたのを覚えています」
私たちは、先の大戦における多くの犠牲のもとに今日の平和な日本があることを決して忘れてはなりません。戦争を体験した世代が少なくなる中、平和の大切さを次の世代へ伝えることは今を生きる私たちの務めです。
戦後80年、あらためて、平和の尊さに思いを寄せてみませんか。