- 発行日 :
- 自治体名 : 熊本県湯前町
- 広報紙名 : 広報ゆのまえ 2025年2月号
今回は普門寺とゆかりの深い市房山が、いかに重視されていたかを示すものとして、人吉藩主の市房参詣(さんけい)を紹介したいと思います。
■普門寺の禄高
江戸時代の普門寺は市房神社の別当寺として市房山の信仰を管轄していました。普門寺には相良家から市房神領として460石(こく)が与えられていました。人吉の願成寺が239石あまり、青井阿蘇神社が216石であることと比較しても領内の寺社で最大の禄高(ろくだか)※1でした。市房山が信仰の対象として重視されていたことがうかがわれます。
■人吉藩主の市房参詣
市房山が人吉藩から重視されていたことがわかる行事として、藩主の市房参詣(市房社参(しゃさん))がありました。
江戸時代、人吉藩主は参勤交代のため江戸へ出発する前に市房神社に参詣することが恒例となっていました。江戸時代後期の記録をもとに市房参詣の流れを紹介したいと思います。
1月初めに市房参詣を行うかどうか側近が藩主に伺い、日程や道順が決まります。道筋の村々では、道作りを行い、社参前日には掃き掃除をして、藩主の一行を迎えました。
当日は九つ時(午前0時)供揃(ともぞろ)えをして人吉を出発。多良木の永昌寺(ようしょうじ)で朝食を、湯山の御仮屋(おかりや)※2にて昼食をとり、市房神社へ参詣しました。市房神社では普門寺の住職が案内を勤め、藩主の参拝後には普門寺住職と御供の御用人が相伴(しょうばん)※3をして三献(さんこん)※4があり、休息所で御粥(おかゆ)と煮しめを食べることになっていたようです。食事を済ませて湯山まで帰り、夜は湯山に一泊しました。
安永2年(1773年)成立の『球磨絵図』には普門寺の近くに御仮屋が描かれ、「市房社参等の節ここに止宿する」と説明が記されています。江戸時代中期ごろには、湯前の御仮屋が利用され、後に湯山の御仮屋が利用されるようになったようです。
話は戻り、翌日は朝七つ時(午前4時)に供揃えをして湯山を出発し、湯前の普門寺に参詣しました。普門寺では藩主一行を出迎え、酒肴(しゅこう)でもてなしました。
普門寺から人吉の帰路には球磨川の北を通る北目筋(きためすじ)と、上村(現あさぎり町上)方面を通る南目筋(みなみめすじ)の二通りがありました。北目筋を通るときは岩野の生善院、黒肥地の青蓮寺などに参詣しながら人吉に帰ったようです。南目筋通行のときは、上村の宝持院※5で昼休憩をしました。
藩主は駕籠(かご)に乗っているとはいえ、人吉から市房神社までを一泊二日で往復するのは大変なことだったでしょう。藩主自ら参詣を行うほど市房神社が重視されていたということができます。
※1 藩から俸給として与えられた土地や米高。当時は米の収穫高で表示していた
※2 藩主が休憩や宿泊で使う施設
※3 同伴して食事をとること
※4 杯を回して酒を飲むことを三回繰り返す儀式
※5 現存せず
教育課学芸員 松村祥志(しょうじ)