文化 湯前歴史散歩 普門寺のはなし(6)

江戸時代には、市房神社の別当寺として、寺社としては球磨郡最大の禄高を誇った普門寺ですが、明治に廃寺となってしまいます。

■神仏分離と普門寺
慶応3(1867)年10月、江戸幕府15代将軍徳川慶喜が大政奉還し、12月王政復古の大号令が発せられました。新政府は、神武(じんむ)創業の始めに基づくことをスローガンに掲げ、神道(しんとう)の国教化を進めていきました。その一環として、慶応4年3月から4月にかけて、別当・社僧などと称して神社に仕えている僧職身分の者の還俗(げんぞく)(僧侶から俗人に戻ること)が命じられ、神社に「権現(ごんげん)」など仏教系の呼称の使用や、仏像を神体とすることなどが禁止されました。これら一連の通達を神仏分離令と呼んでいます。
これを受けて、人吉藩では9月16日に神社の別当を勤めていた普門寺など4ケ寺に廃寺が命じられました。なお普門寺最後の住職は第43世運教で、廃寺後に、水上村の生善院の住職となっています。

■普門寺から里宮神社へ
慶応年間の「人吉藩分限帳(ぶんげんちょう)」という史料があります。分限帳とは藩士や寺社の禄高を書き上げた帳面のことです。市房神社の社領として一七〇石、社司(神職)として尾方謙四郎という名前が記されています。続けて次のような説明が記されています。
「右は、市房社、唯一神道に相成り候(そうろう)に付き、新規御取り建て、社司仰(おお)せ付けられ、書面の神領、地形(じかた)差し附けられ、尾方姓下され、青井土佐守(とさのかみ)分家の格仰せ付けられ候。もっとも普門寺後家作(あとかさく)そのまま下し置かれ候。しかして成長までのところ、土佐守方より神勤これあり候様、之(これ)を相達す。時に慶応四辰年九月廿(にじゅう)三日」
これによると、市房神社は唯一神道になり、新たに尾方謙四郎という人物が社司を命じられ、一七〇石の神領と尾方姓を与えられたことが分かります。唯一神道とは室町時代に京都の吉田神社の神主吉田兼倶(かねとも)が大成した神道の流派で、神仏習合を批判して神道の自立的な理論を打ち立てたものでした。
社司を命じられた尾方謙四郎は青井阿蘇神社の大宮司、青井土佐守の分家格とされ、普門寺の建物もそのまま与えられています。また、若年だったようで、成長するまでの間、青井土佐守が市房神社の勤めをすることが通達されています。
ちなみに分限帳には慶応4年9月23日と記されていますが、実は9月8日に明治と改元されています。改元の情報が、まだ人吉までは伝わっていなかったようです。
明治5年には普門寺の跡に市房神社遥拝所が設けられましたが、これも明治16年に火災に遭い焼失してしまいます。その後、昭和になって里宮神社創建が企画され、昭和9年に竣工し、今に至ります。

(参考文献)『日本林制史資料第七巻』、『ひとよし歴史研究第14号』、『改訂増補九州相良の寺院資料』

教育課学芸員 松村祥志(しょうじ)