- 発行日 :
- 自治体名 : 熊本県湯前町
- 広報紙名 : 広報ゆのまえ 2025年7月号
今回は、普門寺ゆかりの文化財について紹介します。
■普門寺観音堂と六観音坐像
普門寺ゆかりの建物として、里宮神社の下に普門寺観音堂があります。中には木造の六観音坐像が祀(まつ)られています(6体のうち1体は紛失し、5体となっている)。
相良家の歴史書『南藤蔓綿録(なんとうまんめんろく)』によれば江戸時代前期の承応(じょうおう)3年(1654年)に普門寺観音堂ができ、新仏の観音の入仏供養が行われたことが記されています。別の文献には仏像は「洛(らく)ヨリ下向(げこう)ス」とあり、洛とは都のことですので、京都から当地へもたらされたことが分かります。実際小ぶりの仏像ではありますが、きらびやかな仏像で、京都で作られたというのも納得できます。仏像を納める厨子(ずし)の扉の内側には、鮮やかに孔雀(くじゃく)と鳳凰(ほうおう)の絵が描かれています。
余談ですが当時の普門寺の住職、照辰(しょうしん)は京都で修行して球磨郡に戻り普門寺の住職となった人物で、この観音堂を建てたほか、夢のお告げにより多良木の落ちぶれていた古堂から仏像を見つけ、京都で修理して普門寺に安置したことでも知られています。この仏像は、藩主相良頼寛(よりひろ)が普門寺に参詣した時に目に留まり、藩主の命で人吉の願成寺に移されました。今も願成寺の阿弥陀如来坐像として伝わり、鎌倉時代の優れた仏像として国の重要文化財に指定されています。
さて、普門寺の六観音は、市房神社の祭神の本地仏(ほんじぶつ)として作られたもので、江戸時代には「御本地堂(ごほんじどう)」と呼ばれていたようです。江戸時代中期に成立した相良三十三観音の第二十六番札所にも選ばれています。明治になり、普門寺が廃寺になったあとも観音堂はそのまま残されました。現在の観音堂は明治16年の大火後に再建されたものと考えられています。
■里宮神社の手水鉢
里宮神社の境内に、今も使われている石造の手水鉢(ちょうずばち)があります。これは江戸時代の享保8年(1723年)に普門寺に寄進されたものです。側面には、手水鉢を寄進した人々の名前が40人ほど刻まれています。米良・井上・永池・椎葉・岩野・東・豊永・北崎・溝辺・那須・深水・渋谷・尾方・落合など今でも湯前に見られる苗字の名前が多く刻まれています。普段は見過ごしてしまいそうなものですが、この場所に普門寺があったことを示す貴重な文化財ですので、里宮神社に行った時にはぜひ目を向けてみてください。
教育課学芸員 松村祥志(しょうじ)