- 発行日 :
- 自治体名 : 熊本県湯前町
- 広報紙名 : 広報ゆのまえ 2025年8月号
■潮神社のはなし
今回は、潮神社について紹介します。
▽『麻郡神社私考』の記述
潮(うしお)神社に関する最古の文献は、現在のところ江戸時代に編纂された『麻郡神社私考(まぐんじんじゃしこう)』です。本文献は、青井阿蘇神社の大宮司青井采女佐惟董(うねめのすけこれただ)が、藩主の命を受けて領内の神社の祭神や由来を調べてまとめています。
『麻郡神社私考(まぐんじんじゃしこう)』には「潮大明神」として、所在地は湯前町猪鹿倉潮山、祭日は11月8日、社人尾方早助と書かれています。社家の言い伝えによると、祭神は日州(にっしゅう)(宮崎県)の鵜戸神宮と同体で、草創年代は不明です。永享(えいきょう)年中(1429~1440年)に再興されとあるので、約600年前にはすでに潮神社があったと思われます。その後、天正年中(1573~1591年)、貞享(じょうきょう)元年(1684年)に改修、現在の社殿は明治時代に改修されているようです。
続けて、潮池の記述があります。神前左右に潮池があり、時に応じて満ち引きするということが書かれています。近くにあるゆのまえ温泉湯楽里の温泉は珍しい潮湯ですが、潮池の水にも塩分が含まれていることが古くから知られていたようです。潮池の水が満ち引きしたという話が本当かどうか分かりませんが、塩味からの連想で海の水(潮)に結びつけられてできた伝承かもしれません。
▽潮池と相良清兵衛
潮池に関連して次のようなエピソードが紹介されています。「元和(げんな)年中(1615~1623年)、藤原頼兄(よりもり)が初めて参詣して、この潮を見て、とても珍しいとして、毎年池を浚(さら)えさせた。明暦(めいれき)年中(1655~1658年)に豊永氏が中興して以降毎年8月彼岸に潮水を掃除している」
藤原頼兄(よりもり)は、江戸前期の人吉藩の重臣相良清兵衛(さがらせいべえ)のことです。相良家に仕え功績があった人物ですが、後には藩主をしのぐ勢力を持ったため、藩主が江戸幕府に訴え、津軽(青森県)の弘前(ひろさき)に流罪となりました。人吉藩の歴史を語る上での重要人物が、潮神社に参詣して潮池に注目していたことは興味深いことです。
江戸時代には毎年旧暦の8月の彼岸に池を掃除することが慣例となっていたようです。
▽『球磨絵図』の記述
江戸中期に球磨郡の様子を描いた『球磨絵図』にも潮神社が描かれています。説明文には「神前の左右に潮池有り、(中略)諸鳥(しょちょう)集りて、此(この)潮を含(ふくみ)て肥(こゆ)、其(その)味他に超(こゆ)と云(いう)」とあり、よく見ると神社の左右に2つの池が描かれています。また、鳥が集まり潮を含んで肥え、味がほかよりも優れているということが書かれています。
教育課学芸員 松村祥志(しょうじ)