文化 まるごと博物館 232

■図画工作教育の先駆け 佐藤平太郎(さとうへいたろう)
佐藤平太郎は、明治13(1880)年3月に岡本村挾田(現竹田市)で生まれました。明治37(1904)年大分県師範学校を卒業すると、翌年直入郡高等小学校教員になりました。しかし、西洋学を学びたいという気持ちが強く、1年後には小学校教員を辞めて、東京高等師範学校官費圖畫(ずが)手工科に入学しました。明治41(1908)年同校を卒業すると、鹿児島県内の中学校や福岡県小倉師範学校などで圖畫手工を教えました。圖畫手工は、図画工作のことです。
約15年間、教育者として活躍した実績が認められ、大正7(1918)年、横浜市圖畫手工科視学に抜擢され、大正13(1924)年には、東京市圖畫手工視学となりました。視学は、学事を視察する職で、関東大震災後の東京における図画工作教育の復興に貢献しました。
また約20年間、日本の小・中学校教育の図画美術について研究を重ね、その教え方について指導をしました。こうした功績を称えるため、昭和14(1939)年、圖畫手工教育功労記念式が東京市の帝国教育会館で開催されています。
平太郎の図画工作の教え方は、何でも自由に描くことを邪道とし、児童生徒が絵の鑑賞をして美意識を高め、図画の様式を系統的に学ぶことによって、自然的発達を促すという画期的なものでした。また、「キビガラ細工」、「色テープ細工」という独創的な発想は、国内の図画工作の教育水準を高めたといわれています。小学校の図画の作品審査では、1枚1枚丁寧に見て、懇切丁寧に検討し、誰にでも分かるよう指導しました。
「いぬのおまわりさん」の作詞で知られる佐藤義美は、平太郎の長男です。岡本の生家は、公園となっています。

参考資料「佐藤平太郎氏圖畫手工教育功労記念会報告書」
(本田 耕一)