- 発行日 :
- 自治体名 : 大分県竹田市
- 広報紙名 : 広報たけた 2025年9月 NO.246
■大久保貞義(おおくぼさだよし)と北原白秋
大久保貞義は、明治33(1900)年久住町都野石田で生まれる。教員を経て中学校長となり、昭和28(1953)年直入郡都野村・長湯村・下竹田村の3村の教育長となる。昭和48(1973)年、72歳で亡くなった。貞義は、若いころから作家の志をもち、同人誌や新聞等に投稿し、広く師友を求め文学に没頭した。
さて、北原白秋は昭和3(1928)年7月27日、菊子夫人の里、大分市を訪ねる。夫人と長男「隆太郎」、長女「篁(こう)子」の一家そろっての里帰りだった。同年8月2日、油屋熊八によって久住高原に案内され、久住山を背後にして、赤川の高原からはるか西方に並び立つ阿蘇五岳、それに続く祖母、傾の大連山のパノラマを眺望して、さすがの白秋もしばらくは声もなかった。
久住の人々は、この草原に集まって大野宴を張り、花火をあげ、盆踊り大会を催して夜の更けるまで歓待した。白秋は心から喜び、工藤元平(くどうもとへい)、大久保貞義らの「後日、歌碑を建てたい」という請いを受けいれて、その夜の宿所である大分県種畜場において、当日の即詠「草深野 ここに仰げば国の秀(ほ)や 久住は高し 雲を生みつつ」の一首を筆太に認(したた)め、意に満たぬまま2時間余りも何枚となく書き続けた。翌朝は、久住小学校の教員であった大久保貞義の計らいで、新築したばかりの講堂に迎え入れられ、村童たちに今見てきたばかりの朝の高原の植物や虫の話をした。
大久保貞義、工藤元平が請うた歌碑は、昭和41(1966)年8月2日に建立された。この歌碑は「雨降り峠歌碑」といわれている。
(田北 敏彦)