くらし 【特集】「戦後80年」(1)

今年の8月15日で、1945年の終戦から数えて80年が経ちます。その長い年月の中で、平和な日常が築かれてきました。しかし、その裏側には、戦争によって命を失った方々やそのご遺族のさまざまな思いがあります。この歴史的な節目に当たり、あらためて戦争の記憶と向き合い、戦争と平和について問い直す思いを込めて「戦後80年」をテーマに特集を組みました。
当時の様子を知る世代も年々少なくなっている今ですが、戦争の記憶と向き合うためにご遺族の貴重な証言をご紹介します。竹之下喜久子さん、河野子さんのお二人は、戦争でご家族を亡くされた経験と当時の様子を語り、その記憶と思いを次世代へ伝えようとしてくださっています。
本特集を通して私たち一人一人が「戦争とは何か」「平和とは何か」を考えるきっかけとなれば幸いです。
また、今回の特集に際し全面的にご協力いただきました「豊後大野市遺族会連合会(三田熊夫会長)」にこの場をお借りしてお礼申し上げます。

◆遺族の記憶
竹之下喜久子(たけのしたきくこ)さん
約310万人が戦場に散った太平洋戦争が終わって80年。父は、昭和14年8月、母と子ども4人を残し31歳で戦死しました。長兄は父の顔を覚えていますが、次兄と私は全く記憶がありません。弟においては戦地からの軍事郵便で「忠夫」と名付け、その半年後にノモンハン(現在、モンゴルと中国にまたがる草原地帯)で戦死しました。忠夫も写った親子5人の写真を戦地にいる父に宛てて送りましたが、父が亡くなる前に届いたか今もって定かでありません。
あの時勢は軍人が一番必要とされていました。父は、地元の県立農学校を出て農林省台湾支所に勤めていましたが、ある親戚の人から軍人になることを勧められ、家族は不賛成でしたが、本人が決めて東京の士官学校に進み、当然志願という形になったようです。
ノモンハン事件は全滅とのことでしたが、終戦から何年か経って、熊本から3人の方が度々お墓参りに来てくださいました。その方たちは中隊長の父の計らいで無事だったそうで、また大分市から来られた方は、暗い壕の中で一晩中位牌を抱いていたことを思い出し、仏壇の前で涙ぐんでいました。私はその姿にジーンときて一緒に泣きました。
父と二人の将校と同じ壕で寝食を共にした見習い士官の松本稲郎さんという方から、戦地と父の様子を便箋5枚に書いて送っていただいています。日常口数の少ない父がむっつり起き上がり、冗談を言ったり「おてもやん」を唄ったり、記憶にない父ですが想像しうれしくなります。その夜も4人で冷酒をすすりいい気分になったところ、砲弾がどんどん飛んできて、父は日が暮れてこれ以上戦闘できない状況を200メートル離れた部隊長に連絡に出た80メートルくらいの所で弾丸に倒れたそうです。銃弾に倒れても右手にしっかり拳銃を抱いていたらしいです。
後日、白木の箱に納めてくださったそうです。
母は、慣れない農業で子ども4人を育てましたが、いつもそばにしっかり者の祖母がいて、心強かったと思います。祖母に感謝・感謝です。孫の私たちもよく祖母に叱られました。
長兄が旧制中学に通っていた2年のとき終戦。家族のため地元の農業高校に編入し卒業。祖母・母(祖父は昭和18年他界)と農業に励みました。
昭和27年に次兄が大学に入学した時、ある親戚の人から「男親もいないのに大学など」と言われ、母親は「本人が進みたいから」と答えました。弟は県外の大学に進み、私は女だからと諦めさせられました。
平成18年、日本遺族会主催「中国東北地区慰霊友好親善事業」に参加しました。ノモンハンはどこまでも続く荒野で、それらしきところでろうそくと線香を立て持参したお酒とお米を供え、手を合わせました。「こんな荒野で戦いを…」と悲しくて涙が止まりませんでした。
残された写真での憶測ですが、熊本連隊(水前寺)での生活が、私たち家族にとって平穏な日々であったと思われます。私が縁側で遊ぶ姿や兄がぶかぶかの軍服を着た写真で想像できます。父の写真・金鵄勲章・松本稲郎さんの手紙・戦地に送った5人の写真。これらは私にとって、かけがえのない宝物です。
世界では、連日戦争の報道がありますが、心が痛みます。平和な現在の日本。二度と私たちのような遺児が生まれないことを祈ります。