- 発行日 :
- 自治体名 : 大分県豊後大野市
- 広報紙名 : 市報ぶんごおおの 2025年8月号
◆大和男子(やまとおのこ)と生まれきて
河野邦子(かわのくにこ)さん
昨夜来の雨で一際つやを増した紫陽花がうっとうしい梅雨を紛らわそうとしている。
吾が産土(生まれたところ)にはまだ咲いていないだろう。
考えてみれば交通の便も極力不便であったろうに、幼子を連れてはるばる樺太から九州大分への帰省は至難の業であったろう。
帰省するや直ちに父は、陸軍に志願し、大分四十七連隊に所属して中国に渡る。
出征時の写真に母の呟きが記されている。
「大和男子と生まれきて咲くもよし散るも尚よし武士の道」
勇ましく出征する父を気丈に送り出した母であったろうに、父は船上にて双眼鏡が形を成さぬほどの銃撃を受け即死。昭和十六年十月三十三歳故大尉。奇しくも親戚のO氏が同船していた事により、長靴等の遺品が少なからず戻った。
一方母は、大阪赤十字看護学校での博愛精神のもとに別府海軍病院に勤務し、負傷兵の看護に携わる事になる。
しかし、程なく襲い来る病魔は、容赦なく母の体をむしばんでいった。
昭和十七年五月のお茶摘みのころ、三十一歳でついに母は帰らぬ人となる。(戦病死)
幼くして両親を失った自分は、両親に勝るとも劣らぬ祖父母のもとで育ち、どこへ行くにも祖父の外出には許される限りついて行った。
その行く先々で、知らぬおばちゃん達が「お孫さん大きゅうなられましたナー」等々自分の背丈に合わせて語りかけてくれたあの情は、今も鮮明に記憶している。
やがて敗戦の色濃くなった昭和二十年四月、北部国民学校の講堂で入学式を迎える。講堂には地区の戦没者二十数名の遺影が掲示されており、講堂に入ると何時も父母に睨まれているような気がした。
学校での朝の日課は、表門を入ると職員室の神殿の正面に立ち、二礼二拍手一礼をし、次は奉安殿(天皇皇后の写真と教育勅語を納めていた建物)に深く礼をし教室へ向かう。これらは日本国民の戦勝祈願の一縮図であったろう。
校庭には防空壕が掘られ、校庭の隅まで芋が植えられ芋畑と化した。
間もなく校舎での授業が危険になり分散教育が始まる。上級生は農家の農作業を手伝う勤労奉仕に明け暮れ、低学年はお宮の板敷きで勉強の真似ごとをしていたような気がする。この頃は山間僻地に限らず生活必需品が日本国内から消滅し、人々の暮らしが徹底的にゆき詰まり、息絶えだえの有様に零落れた。
じりじりと太陽の照りつける八月十五日、玉音放送により敗戦の宣言を聞く事になる。
戦後八十年の今、母の呟いた独り言を反芻しながら思う。
再び戦はくりかえしてはならないと。
■豊後大野市戦没者追悼式を開催します
先の大戦において犠牲になられた方々を悼み恒久平和の実現を祈念して、戦没者の追悼式を開催します。
追悼式に参列していただき、戦後80年というこの機会に、ご家族で平和について考えてみるのはいかがでしょうか。
日時:11月15日(土)10時開式(1時間程度)
場所:エイトピアおおの 小ホール
その他:300人以内 参列無料
ご遺族以外の方、小中学生、高校生でも参列できます。
問い合わせ先:社会福祉課 福祉監査係
【電話】0974-22-1040