- 発行日 :
- 自治体名 : 鹿児島県指宿市
- 広報紙名 : 広報いぶすき 2025年6月号
■開聞の地に残る瑞応院(ずいおういん)跡
枚聞神社の西側一帯には、明治時代の初期まで瑞応院という寺院がありました。瑞応院は、枚聞神社の別当寺(べっとうじ)(神社に付属する寺)で、智通僧正(ちつうそうじょう)によって白雉3年(652)に建てられたとされます。その後、数百年の間、廃寺となっていましたが、正中3年(1326)に島津氏が舜請(しゅんぜい)和尚に再興させ、坊津一乗院(いちじょういん)の末寺となりました。再興してから明治初期の神仏分離に至るまでの約500年の間、頴娃郷の菩提(ぼだい)寺として機能し、六十数代の住職が勤めたとされています。
また、枚聞神社の宝物殿には瑞応院の物とされる巨大な平瓦が展示されており、立派な寺院があったと推定されます。栄華を誇った瑞応院も明治初期の廃仏毀釈(きしゃく)によって徹底的に破壊され、現在はその姿を見ることはできません。
ただし、本尊の阿弥陀如来像だけは、廃仏毀釈の際、埋め隠されたことで難を逃れました。明治12年に掘り出され、現在は南さつま市(旧坊津町)久志の広泉寺(こうせんじ)に安置されています。
その後、開聞町郷土誌編さん事業により行われた発掘調査によって、寺跡から五輪塔、宝篋印塔(ほうきょういんとう)の板碑、無縫塔(むほうとう)などの墓石群が確認されました。さらに、昭和62年の道路工事に伴い、石棺が一基発見されました。内部には古銭93枚が納められており、身長150cm未満の40代男性が葬られていることが分かりました。この石棺が発見された場所は、瑞応院跡地石棺出土跡として瑞応院跡の隣りに保存されています。
問合せ:生涯学習課文化財係