文化 【郷土史への扉】狙われた鉄道と駅

80年前に終わった戦争では、鉄道や駅も標的になりました。
明治34(1901)年に、鹿児島駅から国分駅(現・隼人駅)までの路線が開設されて以来、物流や旅客の主力として県内に整備されてきた鉄道は、昭和12(1937)年に日中戦争、昭和16(1941)年に太平洋戦争が始まると、軍需物資や出征兵士の輸送も担うことになりました。
召集令状(赤紙)が届いた青壮年たちは郷里の駅から出征し、人々は「祝出征」「祝入営」といった幟旗(のぼりばた)を先頭に、日の丸を振って見送りました。
まだ戦局に余裕があるときは、「英霊が帰ってみえるから迎えに出るように」と※布令が回ると、在郷軍人、婦人会、国民学校の児童らが駅前や線路沿いに集まり、白布で包まれた遺骨を出迎えました。

■米軍の襲来
昭和20(1945)年、戦局が悪化すると、市内にも米軍機が襲来するようになりました。米軍は日本上陸作戦の一環として、南九州へ上陸する作戦を立てます。その前準備として南九州の航空基地や交通網を破壊するよう計画し、重爆撃機B29による爆撃や艦上戦闘機による銃撃などで、鉄道や駅も被害を受けました。

■国分駅発の列車
昭和20年3月18日、国分駅から霧島神宮駅方面へ向かっていた列車が米軍の艦上戦闘機に狙われました。午後4時に国分駅を出た列車は霧島神宮駅へと向かう途中で戦闘機に遭遇。トンネルに逃げ込んだものの、後部車両がトンネルに入ることができず機銃掃射を受け、乗り合わせた通勤通学の乗客約50人が死傷しました。列車はそのまま国分駅まで引き返し、負傷者は松永海軍病院(現・市立医師会医療センター)に収容されました。

■霧島神宮駅周辺
同日、数機の米軍機が霧島神宮駅周辺から大窪・田口一帯に襲来し、低空で機銃掃射を行いました。駅舎や駅構内の農業倉庫は被害を受けましたが、農作業などをしていた人々は、慌てて土手下や溝の中に身を隠し、幸い死傷者は出ませんでした。霧島神宮駅の周辺には、本土決戦に備えた戦車を隠す戦車壕が作られ、戦車の運び込みに列車が利用されました。後には、この戦車も機銃掃射の標的になりました。

■隼人駅の貨物列車
日にちは不明ですが、隼人駅でも列車が米軍機の機銃掃射を受けました。駅近くの切り通しになった場所に逃げ込んだ車両は無事だったものの、駅に停車していた貨物列車が被害を受け火災が発生。数十人の人々によってバケツリレーでの消火活動が行われました。

■大隅横川駅
昭和20年7月30日、大隅横川駅に十数機の米軍機が襲来。駅舎や貨物列車などをめがけて機銃掃射を行い、焼しょう夷い弾を投下しました。駅舎は、中から空が見えるほど屋根に無数の穴が開きましたが、焼夷弾の被害は免れ、今も開業当時の姿を見ることができます。しかし、駅の裏手の地域は火災になり大きな被害を受け、数人の死傷者も出ました。ホームの柱にはこの時の弾痕が残り、空襲の恐ろしさを今に伝えています。(文責=堀之内)