- 発行日 :
- 自治体名 : 鹿児島県徳之島町
- 広報紙名 : 広報徳之島 令和7年7月号
■シマジマ(島・シマ相撲)
○徳之島の相撲
徳之島には二種類の相撲がありました。ひとつは大和相撲、もうひとつは島相撲です。明治28年(1895年)、亀津村出身の吉満義志信は「徳之島事情」のなかで、奄美群島の研究史上最も早くそのことを指摘しています。その説明によれば、大和相撲は現在の大相撲中継でおなじみの立ち合い相撲です。一方の島相撲(写真1)は、二人とも腰に帯を巻き、お互いにこれをつかみ合って背中が地面についた仰向けの状態になった方が負けとなります(組み相撲)。
※写真は本紙をご覧ください。
○相撲の変化
天城と東天城では大正年間に伝統的島相撲から伝統的大和相撲に変わり、亀津や伊仙でもおおむね大正年間あたりに伝統的島相撲から折衷的島相撲(組み相撲のまま、ルールは大和相撲)に変わり、戦後になってから伝統的大和相撲に変わりました(津波高志『奄美の相撲』)。このような変化をもたらした一因として、師範学校や中学など島外に進学した学生たちの影響がありました。
○朝潮太郎
井之川出身の第46代横綱朝潮太郎(本名:米川文敏)は「戦後最高のヒーロー」と言われ、その活躍は米軍政下にあった奄美群島民を勇気づけました。戦後すぐ、名瀬市で開催された大島郡相撲協会主催の大会に出場した米川青年(昭和4年生)は、当時、立ち合い相撲の経験がなく4人と対戦して1勝をあげたのみでした。その1勝は、相撲協会長から「おーい米川、相手をつかまえて土俵から出せ」という一声を受け、そのとおりにした結果であった、との逸話が伝わっています。
先に述べた、旧亀津町域では戦後になってから大和相撲が主流となったという、徳之島における相撲の歴史が関わっているエピソードです。
なお、大阪・関西万博期間中の8月4日には、「SUMOが世界をひとつにする! SUMO EXPO2025」が開催され、本町は朝潮太郎について、瀬戸内町は相撲甚句などの「相撲文化」を発信する予定とのことです。
(町誌編さん室 竹原祐樹)
問合せ:郷土資料館
【電話】0997-82-2908