- 発行日 :
- 自治体名 : 沖縄県西原町
- 広報紙名 : 広報にしはら 2025年8月号 No.642
昭和20(1945)年4月1日の米軍の沖縄本島上陸後、組織的戦闘(せんとう)が終結するまでの3か月間にわたる沖縄戦を生きのびた住民は、米軍の捕虜となり収容所に送られました。
各地の収容所で分散して生活していた西原村民が故郷に戻れたのは、戦争が終わった翌年の昭和21(1946)年4月4日のことでした。戻れたといっても、我謝・与那城の一部地域にのみ許可が下り、その周囲には境界線が引かれ、そこを越えたり、他の集落に戻ったりすることはできなかったそうです。また、証言によると、集落内の屋敷は跡形もなく、一面雑草やススキが生い茂っており、昔日(せきじつ)の面影(おもかげ)はまったくなかったといいます。
村民は、現在の西原小学校一帯に建てられていた米軍用幕舎(ばくしゃ)(テント)を取り壊し、旧役所(与那城85番地にあった旧西原村役所のこと)一帯に住民受け入れのためのテント小屋を建てました。そこから西原の復興が始まりました。その後、各集落への移動も順次許可されていきますが、西原は、米軍関係施設が多く建てられていたため、なかなか居住許可がおりない地域もありました。米軍の取水池の上流にあった翁長は昭和22(1947)年まで、米軍の弾薬庫(だんやくこ)があった津花波は昭和24(1949)年まで地元に住民が帰ることが許可されませんでした。特に日本軍が建設し途中放棄(ほうき)した小那覇飛行場(15万坪)は米軍に接収(せっしゅう)され、面積もその5倍(78万坪)に拡張されていました。その結果、小那覇は許可がおりるのがだいぶ遅れ、崎原・仲伊保・伊保之浜の3集落については、集落に戻れず住民は他の集落に移り住まざるを得ませんでした。
戦後の西原は、最初に帰村許可のおりた我謝・与那城などの一部を除き、村内の至るところに米軍基地や関係施設が点在する「基地のまち」であり、米兵やフィリピン兵に女性が乱暴されるなどの事件もあったといいます。
西原の住民は、そんな状況であった故郷を復興、再建し、昭和21(1946)年6月には西原東初等学校(現在の西原小学校)、西原西初等学校(現在の坂田小学校)を開校しました。米軍は順次撤退し、昭和34(1959)年には飛行場が解放、土地は返還されました。昭和30年代~40年代に入ると、企業が続々と西原へ進出し始め、昭和47(1972)年の沖縄県本土復帰以降は、団地やハイツの造成により人口は増加し、昭和54(1979)年に、西原村から西原町になりました。
現在の西原町の姿は皆さんの知るところですが、戦後焼け野原となった西原から現在に至るまで復興・発展してきた町の軌跡や、先輩方の努力を、戦後80年の節目に改めて知っていただけると幸いです。
令和7年度平和企画展「激戦地だった西原~焼け野原からの80年~」西原町立図書館で9月7日まで開催しています。
参考文献:
『西原町史第1巻通史編』/西原町教育委員会
『西原町史第3巻資料編2西原の戦時記録』/西原町教育委員会
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